essay 789

成果主義の真意





日本の組織は、「甘え・無責任」をベースとして、ガラパゴス的ともいえる独自の進化を遂げた存在である。それだけに、そこで行なわれているガバナンスやマネジメントは、表面的にはグローバルスタンダードを踏襲しているように見えても、日本的とでも呼ぶべき、極めてユニークなものとなっている。問題なのは、日本人の多くが、この「ガラパゴス化」に気付いていないことである。

その不思議さは、いろいろなところに現れてくる。人事制度など、その典型的な例である。最近でこそグローバル的なマネジメントができるようになった企業もあるが、海外展開を行なった企業の多くが、日本の企業における人事のやり方を海外でも行なおうとして、痛い目にあっている。それは、世界の中でも、日本的なやり方だけが異質であるにもかかわらず、それを常識と思っているからである。

人材は、今そこにある人以上でも以下でもない。あるがまま、見える通りにしか扱わないのがグローバルスタンダードだ。今ある以上に期待することもないし、実力以上のコトを吹きまくっても、あっさり受け入れたりしない。アメリカでも中国でもそうだが、雇う側がきっちりした評価基準を持っていて、客観的にそれを満たしているかどうかを判断する。

基本的に「ヒトを信じない」ことをベースとしているのだ。信じていなくても、目の前で何らかの実績を残せば、その分だけ評価する。80点とか100点とか取る必要はない。期待は最低限。でも全てのメンバーが、その最低限の50点を取ってくれれば、全体が機能するように人事システムを設計しているのだ。個々人の努力に期待し、かなり高い要求値を掲げる日本のやり方とは大きく違う。

日本の組織は、この部分で、すぐ精神論・根性論が出てきてしまう。日本人にとっては、組織は「寄らば大樹の陰」の共同体である。精神論・根性論は「がんばります」なので、実はコストがかかっていない。「スマイル0円」ならぬ、「がんばります0円」なのだ。これと、組織が提供してくれる「甘え・無責任の傘」とがバーターになるのだから、こんなにおいしい話はない。

では、なんでこれで廻るのか。それは、「がんばります」にノセられて、本当にがんばって成果を出してしまう人が、全体の2割ぐらいいるからである。本当に組織を引っ張っているのは、その2割の人々。あとはみな、そこにぶるさがっているだけなのだ。これもまた、「オレのものはオレのもの、ヒトのもののオレのもの」という共同体だからこそ許される甘えである。

長いこと、日本のホワイトカラーの生産性の悪さが指摘されてきた。今でも、海外の企業に比べると、際立って生産性が低い。それはひとえに、働かない人が多いからである。このシステムが出来上がった高度成長期においては、右肩上がりの風が吹いていたので、なにもしなくても、それなりに数字がついてきた。だからこそ、「仕事オタク」だけが本当にがんばれば済む制度ができてきたのだ。

期待値が低くても、最低限働く人を組み合わせ、それなりの効率を上げているのが海外のやり方である。そういう意味では、「がんばっちゃう2割」の人だけ集めれば、非常に効率のいいシステムができるように思うかもしれない。しかし、そうは問屋が卸さない。そういう社会実験も行なわれたが、これをやると、その2割の中が、がんばる2割とズルを決め込む8割になってしまう。けっきょくは、同じ穴のムジナなのだ。

けっきょく日本のやり方の問題点は、甘えの裏返しで、人を信じることを前提としている点である。因果関係に従えば、「甘えてズルができるように、性善説でできた組織になっている」といったほうが正しいだろう。ここを断ち切らない限り、何も変わらない。というより、そういうグローバルなやり方をする組織には、人が集まらない。組織に期待するものが、根本的に違うのだ。

学校の先生なら、性善説に立つことも必要かもしれないが、組織は学校ではない。人を育てる必要はなく、今ある人材をそのまま利用すればいい。そこには、何も期待はない。実は、成果主義の本質はここにある。50点でも、50点が合格点なら、堂々合格である。それで充分なのだ。それで廻るような組織でなくては、グローバルには通用しない。期待があるということ自体、甘えの裏返しに過ぎないのだ。


(13/03/08)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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