essay 790

ワントップ





日本の組織では、天皇陛下というか、トップに立つ者が責任を取ることが不可能な(神聖にして侵すべからず)状態にし、周りのものはその名の元に好き勝手をやり放題という「無責任組織」がまかり通っているのが一つの特徴となっている。その反面、無責任という意味ではルーツは共通するのだが、代表者がたくさんいて、本当の責任者が誰なのか、外から見えにくくなっている組織も多い。

本当の責任者は、一人であるべきである。責任者の顔が明確なワントップでなくては、責任の果たしようがないからだ。一人なら、責任を取るしかない。一人なら、決めるしかない。逃げようがない。オーナーやファウンダーは、いやでもそうなる。だから、オーナー企業やベンチャー企業は、責任が明確で意思決定が速いのだ。責任者が複数いる体制は、無責任の道具でしかない。

そもそも逃げられても逃げないのが、真の責任者である。きちんと責任を取るから、責任者と呼ばれる。トップとは、絶対に逃げない人でなくてはいけない。トップたるもの、正々堂々と、自分自身を逃げも隠れもできない白日の下に置く必要がある。そうすれば、人や組織はついてくる。これが、リーダーシップの本質だ。官僚になるような秀才に、つとまるものではないのだ。

もっともいろいろな事情から、複数による共同統治が必要な場合もある。その場合一番重要なのは、トップ群の中で、横並びを作らず、ヒエラルヒーを明確化することだ。ヒエラルヒーが明確になれば、ガバナンスが効く。ワントップに立つ人間は、ガバナンスを効かせて、関東軍の暴走のような、リーダーの指示を無視するヤツを許さないことが重要だ。順位が明確なら、誰が誰の命令をきく立場なのか、極めて明確になる。

最高責任者は一人孤高の世界に入っているが、それ以外のトップグループは、横並びになっている場合もある。グローバルHQの下に、各国の事業会社がぶる下がっているような場合だ。グローバルCEOの責任と権限が圧倒的なのは明解だが、少なくとも各国の事業会社のトップは、その地域企業のCOOとして、事業に対しては責任を持つ。売上や収益の金額、事業規模に大小はあっても、責任という意味では横並びである。

そのためには、最高責任者以外のメンバーの、責任と権限の明確化がカギになる。それには二つの方向がある。一つは、水平方向での分業である。バリューチェーンの各レベル別に責任と権限を分けるやり方だ。製造部門と販売部門が別会社になっている例は多い。もう一つは、垂直方向での分業である、先ほどのグローバル展開での国別、事業領域別といったカタチで、分社化している例もよく見られる。そういう意味では、カンパニー制や持株会社制も、本来責任と権限の明確化を狙ったもの、ということができる。

当然、トップの心がけと、各事業会社を司るサブトップの心がけとは異なる。トップは、常に冷静に判断して明確な指示を出すと共に、その結果に関しては、いかようなものであっても責任を取る姿勢を示す必要がある。一方サブトップは、最終的責任こそトップが取るものの、各事業に関する自分の権限に対しては全責任を取り、最高のパフォーマンスをあげる義務を負う。あるべき姿は、日本の組織でしばしば見られるあり方とは、大きく異なるのだ。

人という字は、背中と背中で支え合っている、とよくいわれる。それはそれでヒューマニズムという意味ではすばらしいと思うが、組織はそれではダメである。それは「もたれ合い」である。高度成長期においては、右肩上がりの経済発展をバックに、この「もたれ合い」が横行した。保守と革新の55年体制、企業と労働組合の馴れ合い定期昇給、文部省と日教組による学校利権の確保。どれも結局は、もたれあって既得権・利権を確保していた。

百歩譲れば、とにかくワントップで、最高経営責任者がはっきりしており、その座に座っている人間が、自分の果たすべき役割をきちんと理解しているのであれば、その下はどうなっていても、それなりに廻ることができる。逆に、トップがすぐ責任から逃れようとしたり、そもそも責任の取りようのない組織では、舵取りは不可能である。改革しようにも、それがいったいどちらの組織なのかわかった上で乗り込まないと、ロクなことはない。日本の組織は、よく今まで沈まなかったと驚くような、泥舟ばかりなのだから。


(13/03/15)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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