essay 792

リスクヘッジ力





高度成長の恩恵が全国津々浦々まで行き渡り、「列島改造論」に湧いた70年代になるまで、日本は開発途上の貧しい国だった。今でも発展中の国はそうだが、60年代までの日本も、相当荒っぽい気風の国だった。みんな自分を守るのに精一杯。社会も他人も、誰も守ってくれない以上、全部自己責任でやらざるを得ない。基本的に、「オレのものはオレのもの、他人のものもオレのもの」なのだ。ぼやぼやしてたら、自分のモノもすぐに誰かに盗られてしまう。自らリスクを取らなくては、生きてゆけない世の中なのだ。

最近では、駅のホームにはホームドアが設置されている。一義的には、その線区でワンマン運転を行なうために行なわれることが多いが、車掌が乗務している線区でも、ホームドアを設置する例も生まれている。なんとも親切なことである。そもそも昔の客車は、ドアにロックがなく、走行中でも自在にドアが開けられた。冷房もないので、夏などはデッキでドアを全開にして涼を取る人も多かった。駅では、停車前の飛び降り、飛び乗りも自在だった。それでも事故は起きなかった。

この頃は、地方に行くとまだ道路が整備されていない地区も多かった。だからこそ、鉄道が公共交通機関の王者として君臨していたのだが、駅で降りてから家まで、道路の代りに線路の中を歩くヒトたちも多かった。線路の真ん中を歩いていたら警笛を鳴らされるが、犬走りと呼ばれる、線路の脇の細い通路を歩いている分には、全くノーチェック、大目に見てもらえた。地域によっては、鉄道のトンネルも、生活通路の一部となっていた。

踏切だって、標識が立っているだけで安全装置が何もない、「第四種」と呼ばれるものがほとんどだった。それでも、みんなちゃんと確認して安全に渡っていた。遮断機や警報機がないからといって、事故が多かったわけではない。もっというと、鉄道線路と一般民有地の間には、柵も金網も、何もないのが普通だった。それでも危険なワケではない。鉄道と安全に付き合う方法を、人々が熟知していたから、それで済んだのだ。

道路も同様。都市部の幹線同士の交差点を除けば、交差点には信号がないのが当たり前だった。おまけに歩道もない。もっというと、昭和30年代までは、対面交通でさえなかった。山奥の過疎地に行けば、近年の市町村大合併まで、「信号が一つもない村」もしくは「信号は教育用に小学校の前に一つだけある村」なんてのはけっこうあった。車の台数の問題もあるが、誰かに指示されなくても、自分の安全は自分で守れたのだ。

たとえば「食の安全」についても、今から見ればびっくりするようなやり方が罷り通っていた。そもそも、賞味期限が書いてある食品の方が少ない。もっというと賞味期限という考えかた自体が、一般的なものではなかった。乾物屋などという、海苔や乾燥わかめ、身欠き鰊など、比較的日持ちのする食品を扱っているお店があった。ここでは、ほとんどの商品が、箱かガラス壺の中に収められて、店頭に並べられていた。

いくら日持ちがするといっても、商品は劣化する。中には、いかにも変質してしまったような商品もある。それでも問題が起きなかったのは、受け手の側に商品を見極める知恵があったからだ。賞味期限を明示していなくても、それが喰っても大丈夫なものかどうかは、買い手が判断していた。当然、「ギリギリだけどまだ大丈夫」と判断した人は、値切りにかかる。それで、需給もウマくバランスする。

食品添加物もそうだ。色素や甘味料、保存料に何が使われているかなんて、どこにも書かれていない。食べると舌に色が移り、一日中取れないようなお菓子もざらだった。安い駄菓子には、いろいろな薬品が使われているのが当たり前であり、それを含んだ上で買っていた。子供でも、食べ過ぎるとヤバいということは、充々承知していた。リスクがあるのも、想定内だったのだ。

確かに現代の中国ではないが、砒素ミルクやPCB入り米糠油など、食品公害とか呼ばれた「有害物質入り食品」で、病気になったり、死者が出たこともある。でも、さすがにそれは社会問題となった。つまり、社会常識として共有されている範囲で判断できるものについては、すべて買う側の責任に任されていたのだ。そして、それを見分ける力は、日常生活の中から自然に養われるものだった。

豊かな社会になって、安心・安全は、お上が許認可利権の一環として保証するようになった。実は、リスクヘッジを政府や公共セクタに担わせるというのは、安心・安全を自己リスクから切り離し、バラマキ利権構造の中にはめ込むことなのだ。人々からリスクヘッジ力が失われる一方、それで天下りのポストを作ったり、補助金や業務委託費でおいしい思いをしている人がいる。お上任せのリスクヘッジは、二重の意味で罪作りなのだ。人々がリスクヘッジ力を取り戻すこと、それ自体が、社会的リスクヘッジになるのだ。


(13/03/29)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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