essay 793

エラいヒト





世の中、組織があるところには、「長」のつく人が存在する。いわゆる「エラいヒト」である。しかし、どうも「エラいヒト」というのは、コト日本社会ではイメージが悪い。それは、「エラいヒト」は肩書こそあるものの、決して組織のリーダーたり得ていないからだ。日本型雇用の「年功序列」で肩書を得ても、真の意味でのリーダーシップを発揮できない。そういうヒトが、課長、部長、ひいては社長にも多すぎる。

そう言う意味では、「エラいヒト」は決して責任を取らないヒトである。ステレオタイプな「エラいヒト」は、空威張りしまくるだけではないか。実は「ほていさん」のような「置物」に過ぎないのだが、本人もそれを気にしているのか、中身のなさを悟られまいと、威張ったり怒鳴ったりする。しかし、そうすればするほど、周りとの間で空回りが激しくなり、結果としてかえって中身のなさをさらけ出したりすることになる。

同種のイメージを持った言葉には、「お偉方」とか「お偉いさん」とか、いろいろなパターンがある。しかしこれらに共通する点として、そのポジションに対する尊敬ではなく、ある種の軽蔑や風刺が入っていることがあげられる。こういう言葉を使う「大衆」にとっては、「エラいヒト」とはまさに中身のない「ハダカの王様」であり、その足元を見切って使っているのだ。

それは、「エラいヒト」が、階級的に生まれ育ちが違うからそのポジションについているのではなく、同じ庶民の中から「成り上がって」そのポジションについているからである。エラそうにしていても、一皮剥けば皆同じ。そうであるからこそ、裏の裏まで知っているし、安心して嘲笑の対象にできる。妬みもないとはいえないが、本質は一緒とわかっているのだ。

一方、「エラく」なった人の側にも問題がある。ポジションを得たところで、人間性の本質が変わるわけではない。そのワリには、こういうヒトたちは、エラくなると元の仲間を見下したがるのだ。目くそ鼻くそを笑うというか、芥川竜之介の雲の糸というか、成り上がった人たち特有の、元の同胞に対する差別感しばしば剥き出しになる。その裏返しとして、そういう態度は軽蔑されるのだ。

どちらにしろ、大衆社会化し、違う階級ではない「おなじ穴の狢」が、上下関係になるようになってから始まったことである。「長」に就く理由は、学歴や偏差値の差だったり、年功序列だったりするワケで、人間として本質的な違いがあるワケではない。率先して責任を取り、リーダーたり得るように育てられてはいない。これでは、命令に従う理由もモチベーションもないではないか。

何も行動力がなかったとしても、類まれな人の良さとか、周囲から尊敬を勝ち取れる何かがあればいい。「君臨すれども、統治せず」という融和と統合の象徴になれれば、それなりに存在意義はある。こういう「人徳」がなく、リーダーシップもない人には、面従腹背はあったとしても、マトモに従うことはない。その分、益々空威張りが激しくなるという、悪循環に陥るのがオチだ。

大衆社会では、スタート地点がマスでフラットな分、結果の平等を求めがちになる。そこからはずれた存在は、当人も周りも過剰反応になりがちになる。その結果、「長」になってしまったヒトに対しては、いろいろ問題が起こりやすい。金を儲けりゃ「成金」になるし、権力を握りゃ「エラいヒト」になるというワケだ。まあ、これも高度成長期の遺物としての「日本的制度」ということで、そろそろ廃棄物にしないとアカンですな。


(13/04/05)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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