essay 794

内なる敵





21世紀に入ってから、グローバルマーケットでの日本企業の退潮が語られることが多くなった。特に20世紀後半の日本の経済成長を支えた製造業については、その成功体験の記憶が鮮烈なだけに、かなり扇情的に語られる。そういう時に決まって語られる理由は、BRICSなど新興工業国が世界の工場となり追い上げが激しいこと、デジタル化により先行者と後発者の競争力の差が縮小したこと、日本国内における労賃等の高コスト構造などに、帰されるコトが多い

確かに、チャレンジャーの新興国と、ディフェンディング・チャンピオンともいえる日本との間では、そこで指摘されたような差異があることは間違いない。しかし、それは現象面の問題であって、構造的問題ではない。すなわち因果関係として、結果として生じた差異ではあっても、それが差異を生み出した原因ではないのだ。それらを生み出した原因ともいえる問題を捉えなくては、解決には繋がらない。

そのためには、それら日本の製造業企業が抱えている内的な問題を浮き彫りにする必要がある。歴史的に振り返って、その原因を探ってみよう。1980年代においては、その初期こそ円高不況に見舞われたが、80年代半ばから日本経済は力強く復活した。自動車、電機、ITなど、輸出産業の大企業メーカーは大いに潤い、日本経済は、「Japan As No.1」と呼ばれた絶頂期を迎えた。そこにあのバブル経済が輪をかけ、歴史的に見ても空前絶後の好景気となった。

円高を活かして、海外企業の大型買収がはじまったのもこの頃である。とにかくあらゆるものが、いけいけドンドン。思い起こせば、これが最後の右肩上がりの追い風であった。この時期は新卒採用も、70年代のドルショック・オイルショックによる採用減の反動もあり、とにかく大量採用をしようと青田刈りが横行した。就職市場も圧倒的な売り手市場になり、何社も内定をとった中から一番いい条件のところをえらぶなど、新卒者もワガママが言いまくれた。

こうなると学生が選ぶのは、当然「寄らば大樹の陰」。いちばん楽で役得も多く、仕事しないでも給料が高いという、「おいしそう」な会社が最も人気企業となる。この連中こそ、いわゆる「バブル世代」である。高度成長期のような「サラリーマンは気楽な稼業」が、バブル景気と共に亡霊のように復活したのだ。しかしこいつらは、高度成長期のように会社に忠誠心を持ち、会社のために汗水を流す気など毛頭ない。親のスネと同じで、齧れるだけ齧れなのである。

とはいえ、彼らはすでに偏差値世代であった。偏差値の高い有名大学を優秀な成績で卒業した学生は、この超売り手市場の中でも勝ち組中の勝ち組。自分の望むように企業側の条件を選べたし、企業の側もぜひ押えておきたい金の卵とばかりに大事にした。しかしこういう秀才連中は、もともと官僚的発想が強いことを忘れてはいけない。「既得権重視、利権・バラマキ型」の秀才たちに、格別甘い汁を吸わせてしまったのだ。

こういう秀才は、ヤバそうな話からするすると逃げまくるのは得意だが、自らが率先して責任を取ろうという発想は全くない。危機対応、リスク対応はからっきしダメなのだ。とはいえ「甘え・無責任」でも、経済全体が右肩上がりの時にはなんとかなる。しかし、一旦負の回転に入り出したら、全く当事者性はない。逆に、部分最適で会社にマイナスの結果になっても、自分たちの保身と権益の確保だけは、必至に守ろうとする。

90年代の「失われた10年」は、バブル処理のマズさに帰することもできる。問題は、ネットバブルがあった世紀の変わり目以降、世界経済の動きと、日本経済の動きが乖離してしまったところにある。そして、その失われた20年の後半は、このバブル世代が日本の企業の中で現場のリーダーとなり、マネージャーとなってゆく時期と完全にシンクロしている。そう、日本企業の凋落は、バブル期の人事政策のミスによるもの。いわば、自業自得なのだ。

それだけではない、バブル世代は、もともと高度成長の恩恵を得て、生まれたときから豊かな社会の中で育った連中である。今のままが一番楽で幸せ、という中で育ったのだ。 現状を変えていこうなどという発想は全くない。かえってもう少し上の世代のほうが、オリンピックを境に日本社会が大きく変わったことを子供心に知っているだけに、世の中は変われる、変えた方が面白いと知っているかもしれない。

日本企業が後向きになり、時代についていけなくなったのは、古い成功体験に囚われているのではなく、そもそも何かを成し遂げたいからではなく、寄らば大樹の陰で大企業に入ってきた社員が企業の中核を占めるようになったからである。官僚組織のようなエスタブリッシュされた秀才の巣になってしまった日本の大企業など、もういらない。存在することがすでに、資源の最適配分を妨げている。

今や、若くてやる気とセンスのあるヤツは、会社員なんかにはならない。知恵と才覚があれば、自分で、あるいは仲間と何かをはじめようと思うし、資金を出す人も多くなった今、事業をはじめるチャンスはいくらでも転がっている。就活するヒマがあるなら、事業にトライするのが気の利いた学生だ。右肩上がりの追い風などもはやあり得ないのに、寄らば大樹の陰とばかりに大きな組織に寄りすがろうなどと思うヤツなんて、ロクなモンじゃねえ。こんな単純なことすら気付かない企業人こそ、本当の茹で蛙だと気付く必要がある。


(13/04/12)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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