essay 796

統計と因果関係 その1





ここでもすでに何度も論じているが、なぜか日本人は統計解析に弱い。これは、統計解析で導かれる結論が、数字から演繹的に出てくるものではなく、その数字の前提となっているものの妥当性を数値化したものであるからだろう。近代日本の学問においては、生真面目な論理の演繹的展開は高く評価されてきたが、一気に結論にアプローチする発想力や洞察力は、あまり重視されてこなかったからだ。これが特に顕著なのは、相関関係と因果関係の部分である。

事象Aと事象Bの間で、相関係数が高い場合には、次のような関係があることが考えられる。まず一つ目は、AとBの間に直接的な因果関係がある場合である。Aが原因でBが結果であっても、Bが原因でAが結果であっても良いが、こういう関係性の場合、たとえば「風邪をひいていることと熱があること」のように、他の原因によっても結果として同じ事象が起こることがあるので、相関係数自体はさほど高くならないことも多い。

逆に相関係数が高い場合に考えられるのは、事象Aと事象Bが共に事象Cによって引き起こされた結果である場合である。特に社会現象など人間が絡むものについては、現実的には、相互に因果関係になっている場合より、こちらのような共通の原因を持っている場合の方が頻繁に見られる。したがって、統計解析はそこに何らかの因果関係が絡んでいることを示すことはできるが、因果関係そのものの構造を解き明かすことはできないのだ。

因果関係を解き明かすためには、はじめに仮説を持っていなくてはいけない。統計調査なら調査票を設計するときに因果関係の仮説を持ち、それを統計的に立証できるような設問を入れておかなくてはならない。自然科学等の実験でも、単に相関係数を取るためのデータを集めるのではなく、因果関係の仮説を証明できるような実験計画を立てなくてはならない。調査や実験とは、そもそも仮説を持って取り組むものであり、客観データだけあっても何も説明できないのだ。

この「妥当性のある仮説を構築する力」こそ、インサイトと呼ばれる知恵である。幅広い見識や、いろいろな事象に対する情報を持っていることが前提とはなるが、そこから「多分、因果関係はこういう構造になっているのだろう」という本質を読み取る洞察力がなくては、仮説構築はおぼつかない。現実と客観データからいくら論理的・演繹的に展開しても仮説は出てこない。ヒラメキとセンスで本質に迫るのが仮説であり、だからこそそれを立証する必要があるのだ。

ところが日本においては、学識者・有識者といったアカデミックな方々は、知識の量と論理的・演繹的な構築力においてはスバらしい能力をお持ちの方も多いが、結論を思いつき、そこから帰納的にバックキャスティングで仮説を立証するという、因果関係を捉える上では必須とも呼べる想像力をお持ちの方はごく少ない。そこで出てくるのが、統計数字の読みかたの大いなる勘違いである。マーケティング・プランニングに熟達した人間からすると、冗談としか思えないような分析結果によく出会う。

まず論外なのが、もともと必要充分条件の関係にあるモノを、あえて実験調査し分析してしまう誤りである。たとえば数千人のサンプルで、遺伝子型と性別の自己認識を調査したデータがあったとする。これを、性同一性障害の方がどのくらいいらっしゃるのかを調べるために使うのなら、大いに意味がある。しかし、これを使って「遺伝子XXと女性としての性認識には強い相関がある」と分析したところで、何も意味はない。しかし笑止千万だが、こういうレベルの分析をしてしまっている論文も多々あるのだ。

先頃、「日によって朝食を食べたり食べなかったりするヒトには、メタボなヒトが多い」という研究発表があり話題になった。確かにきちんと調査し、統計的に有意な差があったのは、論文として審査に通っているので間違いないと思う。問題は、このデータをどう読むかである。世の中には、これを直接の因果関係で読んでしまうヒトが多い。曰く、「朝食を食べたり食べなかったりすると、メタボになる」。これがとんでもない読み違いなのは、今説明した通りである。直接の因果関係が相関関係を生み出している例は、そうないのだ。

生活者インサイトの専門家としていわせてもらえば、こういうデータを見たときには、まず何か共通の原因があり、その結果として「日によって朝食を食べたり食べなかったりする」ことと「メタボである」ことが生まれていると考えるべきなのである。そうすると、それらしき原因が見えてくる。そう、「気分次第による生活態度の甘さ」だ。腹が減ったら食うし、食欲がなければ食わない。こういう生活態度は、結果的に食いすぎ飲みすぎを招き、当然のようにメタボを生むわけである。

ある程度のインサイト力があれば、結果からほぼ妥当性のある仮説を導き出すことはできる。多分実際の結果をベースにしている分、それは真実に迫っているだろう。しかし、仮説は仮説である。それを立証するためには、また新たな調査や実験が必要になる。それなら、最初から仮説を持って調査や実験を行なうべきである。二重の手間やコストはいらないし、なにより立証できた仮説は、思い付きではなく、統計的な事実なのだから(つづく)。


(13/04/26)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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