essay 797

統計と因果関係 その2





さて前回は、日本人が統計に弱いのは、それを支えるべきアカデミックな世界に構造的問題があり、統計の手法により社会的に意味のある結論を導き出す上で不可欠といえる仮説構築力がある人材を育成してこなかったことが原因となっていることを分析した。今回は、それと同じレベルの共犯者をあぶりだす。それは、新聞に代表されるような、旧来の権威主義的なジャーナリズムである。彼らの統計オンチ・無関心ぶりにも、甚だしいモノがある。

日本の新聞は、自由民権運動の機関紙にルーツを持つ。それは社会的正義を追求しようというジャーナリズムではなく、自分たちの主張を正当化し、支持者を増やすためのプロパガンダであった。そういう意味では、自分たちの意見には極めてコンシャスだが、輿論の動向とか、社会全体のトレンドといった大きな流れには、至って無関心であった。そもそも「自分達>社会」であり、自分達こそがアプリオリに正しいというところからスタートしていた。

この「基本スタンス」は、その後20世紀に入って日本が大衆社会化することによって、一層強められた。ジャーナリズム的な客観性ではなく、マスの部数をどう獲得するかが、新聞の経営目標となった。そのためには、大衆の潜在意識に訴えつつ、その主張を上から目線で権威付けることが最も効果的であった。日本で大衆社会が勃興し出した日露戦争時、戦争の展開とともに、新聞の論調がころころ変わって行く様子など、その最初の如実な例といえるだろう。

問題は、新聞の基本スタンスが、メディアといってもテレビのようにエンターテイメントに徹せず、大衆迎合でありながら、大衆の権威のよりどころたろうとする点である。ここには、事実や客観性を求めるジャーナリズム的な視点はない。本来のジャーナリズムであれば、統計的手法は強い武器になる。しかし、日本の大新聞の取ったスタンスは、統計的客観性とは相容れない。そもそも、水と油なのである。

そこに、大新聞の伝統として、科学的視点、数学的発想の欠如が加わる。帰納法的ロジックであっても、仮説を客観的なデータで論理的に説明することは不可欠である。だからこそ、統計も科学的手法たりうるのだ。しかし、新聞記者の方々は、概して本質を見抜くことも苦手だし、論理的に説明することも苦手である。要は、思い入れを権威づけて語ることしかできないのだ。これでは、詭弁のテクニックとして統計を使うことすらできない。

こういうベースがあるからこそ、新聞では、官庁等が発表する公的調査のデータの取扱においても、「トンデモ本」ではないが、およそトンチンカンな記事を掲載することが多い。新聞を教育の現場で使おうというキャンペーンを新聞社がやっているが、これでは教育上の悪影響しかない。入試に新聞記事の文章が使われるのも、思い入れと仰々しい修飾ばかりで文章の趣旨が取りにくいため、読解力が極めて問われるからではないかと邪推してしまう。

ここで一つ、統計数字の読めない新聞が、よく陥る誤りをシミュレーションしてみよう。画面下方の表に示したのは、平成23年度末の東京23区の区別人口と、平成24年度の東京23区の刑法犯事件の発生件数である。この二つの数字は、インターネットでも容易に入手できる公的データである。しかし、発表される役所が違う。そして、新聞記者は警察から出てくる、刑法犯の発生件数については、社会面のニュースとして、けっこう関心を持っている。

で、新聞記事になるときには、決まって各区別の刑法犯事件の発生件数だけを取り上げるのである。曰く、江戸川区の発生件数が多く、新宿区、世田谷区がそれに次ぎ、そこに続くのが足立区、と。しかし、こんな区別の発生件数には、数学的な意味は何もない。それは区割りが行政の便宜的に行なわれたものであり、各区毎の人口や、エリア毎の経済力などは、全く関係ない代物だからだ。

ちなみに、人口1000人当たりの犯罪発生件数が一番右の欄である。これを見れば一目瞭然だが、千代田区の17.8件が異常値なだけで、あとは主要な繁華街を抱える区は5〜7件、その他の区は2件台でそれほど大きな差はない。ちなみに、人口と発生件数の間の相関係数は、なんど0.74。統計が読めるヒトなら解るが、極めて高い相関係数である。これなら、ほぼ「犯罪発生件数は、都区内においては人口に比例する」といってもよい。

人口ということで考えれば、繁華街を抱える区は、昼間人口のように、居住者より通勤通学でやってくる人、ショッピングやレジャーでやってくる人のほうが多い。従って、各区のピーク時の人口と犯罪発生率の相関を取ると、その相関係数はもっと高くなることが容易に予想される。つまり犯罪件数は、エリアの状況が一定なら、なんらかの基準で捉えた人口を説明変数とする目的変数でしかないのだ。

実は、こんなことは統計以前の問題である。中学校の数学の「表とグラフ」で教わるレベルの、数値の読みかたでしかない。こんな簡単な「算数」も理解できないのが、日本の新聞記者のアベレージなのである。こういうヒトたちが書くプロパガンダが、オピニオンとして罷り通るのだからお恥ずかしい限りだ。最近では、団塊世代以上の老人しか新聞を読まないというが、むべなるかなである。

もちろん、統計解析手法はあくまでも何かを説明するための手段でしかない。それ自体が目的になるのも、本末転倒である。しかし、その手法を有効に使えば、精神論以外の説得力を持たない日本人にとっては、有効な武器となるはずである。そのためには、まず自分達が統計オンチであることを自覚し、カミングアウトすることが重要だ。統計が解らないことは、別に恥ではない。専門家に任せればいいのだから。恥ずかしいのは、統計が解らないことが解らず、恥の上に恥を重ねることの方だ。



(13/05/03)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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