essay 798

ルールは破れ





「事実は小説より奇なり」といわれるように、現実の社会で起こる事象は、人間の想像力を超えている。従って、あらゆる可能性を予見し、それに対し完璧に対応をルールとして決めることは不可能である。だから、ルールがあるところ、必ず抜け穴がある。抜け穴があるということは、ルールは必ずしも守る必要はない。これは、ルールを作った人間との知恵比べである。ルールの代表といえば、官僚が作った法律である。

官僚は、自分の賢さを過信している秀才である。しかし、それは井の中の蛙だ。「ズル賢い」という意味では、真面目な官僚など足元にも及ばないような「アタマの良いヤツ」が、世の中にあふれている。官僚の作った法律や政策には、必ず天下りなど自分たちの利権を増やすとともに、新たなバラ撒きのタネになる抜け穴が埋め込まれている。それが、賢い自分達だけわかっていて、周りからは見えていないと思い上がっている。

確かに、「愚衆」は騙せるかもしれない。しかし、世の中には百戦錬磨のズル賢いやつが多いのだ。そっちの目から見れば、秀才のやる偽装など「頭隠して尻隠さず」。まったくもって子供騙しの茶番である。見えないはずの抜け穴は、あたかも「どうぞご自由にお使い下さい」といわんばかりの、モロ見え状態なのだ。これはそもそも官僚が、自分達がズルするために作った抜け穴である。そうであるなら、それが見える人々にとっては、これを利用して当たり前だ。

日本はそもそも法治国家といっても、その法律自体がこういう作られ方をしている国なのだ。文言通り、後生大事に法律の条文を守る必要などどこにもない。それならば、官僚が意図した以上に条文の「行間」を読み、その隙間を最大限利用することは、誰からも非難されることではない。そもそも日本のようなタテマエとホンネの乖離が激しい国では、法律の条文など、何の拘束力も持たない。

それでも秩序が守られているのは、「ルールを守った方が楽だ」と思っている人の方が多いからというだけのことだ。ルールを守ることで、バラ撒きのご相伴に預かれるなら、寄らば大樹の陰が好きなヒトにとっては、この上ないおいしい話である。同様に、ルールの中に既得権がビルトインされていれば、ルールを守ることが、即、既得権益を保護し擁護することになる。

さらに、ルールを守っている限りは、自分に責任が来ることはない。まさに「私はやってない」である。無責任でいたいヒトにとっては、これまたおいしく、また楽な話である。かくして、世の中が豊かになり、既得権が蔓延した80年代以降、なんでもかんでもルールを作り、それを表面的に遵守することで、「甘え・無責任」な人生を満喫することが常態となってきた。

しかし、ルールを遵守しているだけでは、何も進歩しない。日本が高度成長を遂げた、1960年代〜70年代には、あらゆるものが超スピードで変化した。もちろん日本が貧しい社会からテイクオフしたという経済的な理由もあるが、その時代の感覚として、「自己責任でやるなら、ルールは無視していい」というバンカラな気風があったことも大きいだろう。進歩とは、既存の構造をぶち壊すことから始まる。社会的ルールも、その例外ではない。

今日本社会に足りないのは、こういう「ルールを破っても、何かを実現するバイタリティー」ではないだろうか。無菌室みたいなぬくぬくした環境でしか生きられない人間では、グローバル化する熾烈な環境の元では生きてゆけない。そういう状況で求められるのは、既存のルールに依存せず、どんなボトルネックも力づくで打破していける人間だ。日本社会が必要としているのも、実はこういう人材なのだ。

よく言われるように、日本人にそういうタイプがいないのではない。そういうタイプの人間は、甘え・無責任な日本の社会や組織とは相性がわるいだけなのだ。これから求められるのは、ズル賢い地頭の良さを持ち、スマートにルールを破れる人間なのだ。でも実は、そういう人間は、その才能を活かして、けっこうウマく世を渡っている。そういう人材をフィーチャーし、大胆に舵取りを任せれば、日本にはまだまだチャンスがある。


(13/05/10)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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