essay 800

教師と責任





ある時期から、教育に熱意のある教員志望者は、学校の教師になるより、塾の講師になる傾向が強く見られるようになった。これは、学校と塾の経営意欲の違いがもたらした結果である。塾経営者は、教育者であると同時に、経営者であり、全責任を負っている。だから、全ての判断、全ての戦略が真剣で、かつレベルが高いのだ。まさにビジネス的なシビアさを持たなくては、塾自体を維持できないからだ。

そういう意味では、レベルの高い教育を行なうためには、教える側の責任が問えること・果たせることが大きなポイントとなる。一方、公立学校の教師は、公務員である。責任という意味では、公務員はまずい。そもそも公務員は、責任を問われない構造の中に保護されているのだ。そもそも、この点からして、日本の教育が責任を持って行ない得ない構造になっていることが理解できる。

世の中には、リスクと責任を取っても理想の教育をしたいと思っている、熱心な先生もかなりいる。しかし、公務員という無責任構造がベースになっている以上、公立校ではそれは実現できない。日本社会においては、そういう理想の教育は、私立校か塾でなければ、やれないのだ。教育界を蝕んでいるものも、やはり日本社会の癌である「甘え・無責任」の構造である。さらに、戦後日本の教育の歴史は、常にこの無責任体制を強固なものにすることに終始してきた。

戦後日本の政治を代表するものに、「55年体制」がある。多様な政治意識や利権を持った人々の野合である自民党が政治の主体となるとともに、表面的に対立勢力である革新政党も一定の存在感を持つことで、それなりにバランスの取れた公明正大さを演出し、日本の高度成長期をウマくハンドリングしてゆく基盤となっていた。だが、その本質は公正さではなく、高度成長から生まれるバラマキ利権の隠蔽にあった。

自民党と革新政党は、当時の冷戦体制を利用することでイデオロギー的に対立しているフリをしているものの、バラ撒き利権を維持・擁護してゆく点においては、両者の利害は全く一致していた。いやもともと相互依存により利権の確保を狙ったものであり、イデオロギー的な対立も、バラマキ利権を目隠しし、表面的なアカウンタビリティーを取り繕うためのものであったことも、今となってはあからさまである。

日本の教育史においては、「学習指導要領」が政令により指定され、それにあわせるべき基準となった1958年になぞらえて、この戦後教育システムを「58年体制」と呼んでいる。しかし、この「58年体制」にも、「55年体制」と全く同じ構図が隠されている。実は、学校や教育界というのは、巨大な利権システムとなっている。その片鱗は、子供が学校に通っている人ならば、注意深く見さえすれば、意外と見つけやすい。利権の常だが、衣の下の鎧は見え見えなのだ。

教材等の納入価格は、同種のものの市場価格からは、大きく乖離している。確かに、一般のものと指定のものとは、色が特別だったり、校章が入っていたりと、それなりに違いがある。だからといって原価が違うとは思えないぐらい、値段が違う。わかりにくいが、よく調べると教材費は把握可能である。納入業者も業者で独占体制で利権化されているところが多く、その差額分がどうなっているのか、役所でいえば談合工事の例から類推しても、決して邪推とはならないだろう。

また、海外への修学旅行の費用なども、分割納入等でわかりにくくなっている場合が多いが、世の中の団体ツアーと比べると、やはりかなり高い金額である。実際、旅行業者から事前に「下見ツアー」への招待がかかることもあり、これまた癒着を勘繰りたくもなる。生徒が納める5桁の単位の費用でさえこうなのだから、金額が大きくなる給食等の外部発注、校舎の建設や改装費用など、BtoBで流れる巨額の費用の裏側には何があるのだろうか。

戦後の教育界においては、文部省・教育委員会という行政側と、日教組の「対立」が知られている。だが、この利権構造を知った後では、55年体制と同様、58年体制においても、この対立は隠蔽工作でしかない。この両者は、対立しているふりをしているものの、教育利権と無責任体制の維持という利権を守る点は全く共通し、一致団結している。それどころか、表面的な対立を利用して、マッチポンプで利権の拡大を図ることさえやってきた。

そういう意味では、教育指導要領に基づく指導というあり方自体が、無責任体制の権化である。教育指導要領というルールさえ遵守すれば、結果がどうあろうとお墨付きがもらえるのである。そして、それはあくまでも形式要件をどう満たすかとういうテクニック論で済んでしまう問題である。まさに「58年体制」とは、教育界における、結果責任を取らずに責任を回避できる、究極のシステムなのだ。

結果責任という意味では、予備校や塾はシビアである。進学塾なら、有名校への進学実績。補習塾なら、いかに成績が上ったかという実例。パンフレットを見れば、そういう結果責任を示すデータがあふれている。それだけでなく、入学請負、成績アップ請負というカタチで、直接生徒に対して結果を保証しているところも少なくない。ビジネスである以上、それは当たり前のことなのである。しかし、学校でもそれは可能だ。

私立校は、中高のみの受験校なら、進学実績を示すことで自らの教育の結果に対する責任を果たしている。実績を公表するということは、来年の実績が下がったならイメージダウンになるというリスク要因も含めて行なっているワケである。付属校ならば、大学への内部進学実績や、その後のキャリアパスなども含め公表している。営利事業でない学校法人でも、結果責任を取ろうと思えば取れるのである。

そう、教育は結果責任が取れないものではない。取るのがイヤなヒトたちが、それを回避するような無責任システムを、こと公教育の場においては作ってしまったというだけなのだ。教育改革などと大上段に構えなくても、教師が、そして学校が結果責任を取るようにさえすればいい。教育界にもそう考え、そう行動しているヒトたちはいる。教育において一番重要なのは、教える側の責任である。だからこそ、そういう教育の場が増えてくれば、おのずと市場原理で教育界の浄化は進むことになる。


(13/05/24)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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