essay 801

学問がわかりにくい理由





世の中的には、論文に代表される学術的な文章は、わかりにくいものの代名詞となっている。学術書などというものは、読めば眠くなる睡眠導入剤のごとく茶化されることも多い。確かに、学術的文章はわかりにくい。しかしそれは、巷間思われているように、論じている内容が高度で、難しいからわかりにくいのではない。難しいのは「学術性」それ自体が本質的に持っている、構造的な問題に由来しているのだ。

たとえば、「水は高いところから低いところに流れる」といった誰でも知っているような簡単な常識も、学術的に論じようとしると、水の分子の持っている化学的特性、万有引力の法則、流体力学など、いろいろな理論や数式が出てきて極めて難解になる。これからわかるように、学術的な理論展開自体が、すでに世間一般の理解を離れた、唯我独尊の世界に入っているからこそ、わかりにくいのである。

その際たるものが、独自の用語体系、言語体系を持っていることだろう。これは、特に日本の学界において顕著である。好意的に捉えれば、厳格に正確性を担保できるように独自の体系を持っているのだろうが、実はこれが見えない壁を作ってしまっている。論理的に「正しいラベリング・ネーミング」を定義した上で、それをベースに演繹的に用語を拡げてゆく。その学問の村社会の中に住んでいる人にとっては、誤解がない正しい解釈に繋がるのだろうが、門外漢からすれば非関税障壁である。

この問題点は、学術的な用語を聞いても、感覚的に意味が捉えられないトコロにある。実は一般人は、コトバを感覚的にしか捉えられない。だからこそ、初めて聞く用語や表現であっても、感覚的に理解できて、コミュニケーションが成立する。というより、ほとんどのコミュニケーションは、そういうレベルである。国語のクイズで点が悪くおバカぶりを発揮しても、抜群にトークが上手で会話弾む芸人がいる理由である。

逆に、アスペルガー症候群など最近問題になっている発達障害においては、試験の成績などは抜群にいいのだが、相手に面と向かうと、まったくコミュニケーションをとれない人もよく見かける。これもまた、コトバを論理的に解析する能力は高いが、コトバを感覚的に捉える能力に劣っているために引き起こされていると考えることもできる。逆にいえば、文法がわかなくても会話はできるし、感動的ないい文章も書ける理由もここにある。

つまり学問とは、「身内の符丁」だけで構成された論理体系なのである。これでは、一般民間人が理解できるワケがない。そういえば、日本の学界は「象牙の塔」と呼ばれるように、既得権益が渦巻くエスタブリッシュされた世界である。そこでは、敷居を高くして内輪の既得権を守る、ある種のカルテルが横行している。勘繰ってしまえば、このような「閉じた言語体系」も、それをマスターしたものだけに門戸を開く、既得権益擁護の手段と思えないこともない。

特殊用語で有名なものとしては、数学における「必要条件・十分条件」がある。p→qのとき、pはqであるための十分条件であるが、一般的な用語法で言えば、qであるために「必要とされる条件」がpである、となる。つまり、「成り立つために必要とされる条件が十分条件」なのだ(ちなみに、ぼくは高校のときにこれで覚えたので、それ以降は混乱はない。この一句を覚えておくと便利である)。これは、数学的論理と一般的論理で、主語と目的語が逆なために起こっている現象である。

こういう学術的な論理でも、字面、音面にとらわれず、コトバを単なる記号としてニュートラルに捉えられるヒトなら理解可能である。数学の論理記号で書かれた命題を見て、すらすらとその構造が頭に入ってくるヒトや、n次元空間への写像みたいなものがスッと頭に浮かぶようなヒトなんかはその典型であろう。だがこの能力は、それ自体が限られたヒトしか持っていない特殊技能である。これでは、広がりようがない。

すなわち、せっかくの学問的成果があっても、社会的に共有されないのだ。これでは、多額の費用をかけて行なわれる学術研究も、自己満足のマスターベーションと変わらないことになる。それどころか、わかりにくいのをいいことに、黒魔術じゃないが、誤解、曲解を呼び起こす。前にも書いたが、新聞など、記者が学問を解らないのをいいことに、我田引水な解釈ばかりである。これでは、どんどん学問離れが進むだけである。

少なくとも、費用対効果のアカウンタビリティーという面では、学者自身が世の中に通じる言葉で、やっている研究やその成果を説明し、理解してもらうことがなにより重要である。予算主義の既得権にしておく限り、この悪弊は治らない。昨今、学界の「原子力ムラ」の問題が指摘されているが、その体質は原子力関係の学界に限ったものではない。理系文系問わず、日本の学界が多かれ少なかれ染まっている構造的問題なのだ。


(13/05/31)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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