essay 802

百人百様





世の中、百人いれば考えかたや価値観も百様。違って当たり前である。ある意見に同意する人が多いという状況は、そもそもその問題に関して自分の意見を持っていない人が多数いるのか、あるいは「寄らば大樹の陰」でそこに利権を感じ取ってすり寄る人が多いか、そのどちらかである。微に入り細に入りきちんと詰めていけば、ドコからドコまで全く同じ意見の人など存在するワケがない。

だからこそ、違う価値観を大事にし、お互いに干渉しないように尊重しあうことが大切なのだ。自分が自分の意見を持つことを相手に認めさせるには、相手が相手の意見を持っていることを認めることが前提となる。自重互恵の精神である。突き詰めれば、一人一人が自分しかいないマイノリティーなのだ。だからこそ、相手を大事にし、自分を大事にしてもらうマインドがなくてはいけない。

しかし自分がマイノリティーであると主張する人達の中には、自分たちの意見だけが正しく、他の意見は間違っているし、認められないとする、狭い了見の持ち主がなぜか多い。そして、こういう人達に共通して見られるのが、マイノリティーであることと、弱者であることと、保護支援の対象であることを、完全に同値のものとしてイコールで結んでしまう発想である。

この3つは全く違う話である。歴史を紐解けば、マイノリティーである少数民族が支配者となり、多数を占める民族を被支配者として成り立った国も数多く存在する。未だに内戦の絶えないアフリカ諸国でも、こういう例は多い。マイノリティーであることを理由に機会の平等が与えられないのは言語道断だが、その結果として何が生まれてくるかは、当人たちの活躍次第である。マイノリティーだからといって、結果の平等まで求めるのは本末転倒である。

弱者も同じである。ハンディキャップを理由に、機会の平等が奪われるようなことがあってはならない。しかし、これまた結果の平等まで求めるのはお門違いである。それでは、弱者を武器にタカっているだけのこと。社会インフラをバリアフリーにすることは大切だが、だからといって全ての社会インフラを無料で優先利用させろと主張されても筋が通らない。ハンディキャップをフォローすることは必要だが、特権を与えたのでは健常者が黙っていない。

保護支援も、自立を助けるためのプロセスとしては重要である。しかし、それが利権化・既得権化し、バラマキにありつくことが美味しくなってしまってはいけない。だか、そのバラマキが欲しいからこそ、自らをマイノリティーや弱者と定義付ける例も、社会が安定成長化し、行政支出が利権化した80年代以降、かなり目立ってきた。というより、それ以降のこの手の運動の多くが、結果的に利権の獲得・確保を目的としていることは否定できない。

大体において、差別というのは懐の寂しい者同士の間で起こる。懐が寂しいと、心まで寂しくなってくるのだろうか。「金持ち喧嘩せず」という言葉があるが、少なくとも現状に何一つ不自由がないヒトには、相手を不当に見下したり、差別したりする理由が存在しない。たとえば食うに困っていない人が、飢えに苦しんでいる人を目前にすれば、自分の持っている食料を分け与えたくなるのは、いたって自然なことである。

しかし、飢えている者同士の間ではそうはいかない。ただでさえ食料が不充分なのだから、自分の食べ物を他人に分け与える余裕などない。そんなことをしたら、自分が餓死してしまう。当然、そのわずかな食料は、自分で独占することとなる。しかし、人間という生き物は、最低限利他的な感情を持っているモノなので、ここで食料を独占することには、ちょっとばかり後ろめたい気分がある。ここで必要とされるのが「理屈」である。

つまり、自分がそのわずかな食糧を独占することを正当化する「言い訳」があれば、その後ろめたい感情をクリアすることができる。ここで出てくるのが、自分と相手とは違うことをこじつけるロジックである。端から見れば、目クソ鼻クソのたぐいで、全く同じ穴のムジナであっても、当人同士の間では違いを正当化するヒエラルヒーが必要とされる。こういうロジックは、食料に限らず、限られたリソースが、それを渇望している者同士の間で取り合いになっているときには、いつでも登場する。

かくして、最下層のレベルで生活している人々の間では、どっちがより下かを競い、相手を貶めようというモチベーションが働くこととなる。これが社会的に固定化されたものが差別である。そういう意味では、経済が発展し、貧しい社会を脱すると、差別意識を持つ人が減少するというのも納得できる。しかし、人間は長年浸っていた経験から脱することは難しい。かくして過去の残渣として、差別者の側にも、被差別者の側にも、ある種のヒガミ根性だけが残ることになる。

これがある限り、実態はそこから脱していても、「自分達は弱者であり、マイノリティーなので、もっと特権的に保護され、いろいろな援助を受けて当然だ」と主張することになる。かくしてこの意識は、バラマキ欲求、既得権の擁護へと容易に転化する。日本が豊かな社会になった80年代以降、革新政党や労働組合、人権運動や市民運動などの多くが、バラマキや利権を求める組織に成り下がってしまったのは、このためである。高度成長が終わり、バラ撒く財布がなくなった今、こんな論理は成り立ち得ない。

それどころではなく、今は「金持ち喧嘩せず」的なマインドの人の方が多い。特に安定成長社会になってから育った若い世代は、昔の基準からすれば金持ちとはいえなくても、現状に満足している分、周りを見下す必要もないし、バラマキを求める必要もない。そういう発想自体が、70年代までの高度成長の遺物なのだ。他人がどうでも、自分がそれなりに幸せだからそれでいい。その代わり、みんな自分の世界に干渉して欲しくないと思っている。

百人百様で、それぞれの世界観を尊重し、相手に押し付けず、自分だけの世界を大事にする。これこそ、多様な価値観が共存する秘訣である。ダイバーシティーの本質もここにある。「オタク」の語源は、自分の価値観に干渉されたくないマニアが、相手の価値観と距離を置くべく、相手に一目おいて尊重した敬称から始まっている。まさに、全国がアキバ化し、若者がみなカタカナ「オタク」化した今こそ、ダイバーシティーが最も自然に実現するチャンスなのである。


(13/06/07)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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