essay 803

コミュニケーション障害の国、日本





日本企業の海外進出が盛んになった1970年代以降、海外出張や海外赴任になったビジネスマンが、海外ではつきもののパーティーの場で、ウマく会話できなかったり、会話が繋がらなかったりして苦労するという話をよく聞くようになった。こういうときには決まって、国際化・グローバル化のためにはネイティブのような語学力が必要だという結論になる。果たしてそうなのだろうか。

ネイティブなアメリカ人でも、みんながみんな同じように場を盛り上げる会話に長けているワケではない。実際に関西にいけば、シャイな関西人もいるようなものである。違うのはその先なのだ。アメリカ人は、互いに会話を成り立たせるように努力しているから、会話が続くのだ。コミュニケーションとは自然に成り立つものではなく、デフォルトでは成り立たないからこそ、互いに努力してコミュニケーションする。

大事なのはこの精神である。努力なしにコミュニケーションが成り立つと思うのは甘えである。逆に、コミュニケーウォンを成り立たせる努力を怠らなければ、内容は何であっても会話は成り立つし、つづくのである。たとえば、「英語が不得意なんです、こういうときどうしたらいいんですか」みたいな話題で、自分の下手な英語をネタにしても、アメリカ人との会話ならそれなりに盛り上がる。場合によっては、的確なサジェッションがもらえるかもしれない。

日本人に、こういうコミュニケーションを成り立たせる努力が足りないことは、日本人同士のパーティーでも、知らない相手に話しかけることがあまりないことからも容易に想像できる。こういう場合、大体仲間内だけでまとまって、日頃の飲み屋と変わらない話をしているのがオチである。すでにコミュニケーションが成り立っていたり、さほど努力しなくても成り立つ相手としか、話をしようとしないのだ。

極端な話、結婚式の二次会みたいなところで、新郎側の友人が新婦側の友人のところに行って話しかけたりすると、すぐナンパだと思われる。もちろんそういう下心があってもいいが、ある意味相手の素性がわかっていて、せっかく共通の話題もあるのだから、コミュニケーションにさしたる努力はいらないはずだ。新郎・新婦のそれぞれの友人が、自分達しかしか知らないような裏話を交換するのも、面白いし盛り上がる。おまけにその結果は、一般のナンパよりよほど打率がいい。

コミュニケーションが苦手という意味では、かつて日本の男性には「男は黙って職人気質」みたいなタイプの人達が多かった。手先の技は確かだが、他人とウマく話をできないという男達だ。昔はそれで許されたが、今なら発達障害と診断されてしまうだろう。すなわち、そういう「症状」の人は間違いなく前からいるし、それなりに不都合はありながらも、社会生活を送ってきた。概念やカテゴリができたので、本人の内実は変わらなくても、病気にされてしまったのだ。

そうである以上、「症状」は程度問題で、いろいろなレベルのヒトたちがリニアに連続してにいることになる。従って、病気と診断されない程度の軽度な「症状」を持っている人もたくさんいるはずである。というより昔から、日本人男性の6割ぐらいは、そんなものだった。男性の過半数が、マトモにコミュニケーションできないワケである。グローバル化のボトルネックは、語学力以前に、この国民病ともいえるコミュニケーション障害にある。

以心伝心とか、阿吽の呼吸とか、あたかもノン・バーバルなコミュニケーションが成立しており、それが日本のコミュニティーの特徴だという意見もあった。しかし、それはコミュニケーション障害がある者同士が引き起こしていた、ディスコミュニケーションに過ぎない。そしてそれは手段としての語り方が下手なのではなく、本質的に語るべき自分の意見、自分の意志がないことに起因している。

コミュニティーの中での相対的関係からしか、自分の存在を捉えられないからこそ、自分を主語にして自分を語れないのだ。結局、問題はここに行き着く。「0」に何を掛けたところで0にしかならないのと同様、語るべき自分を持っていない人が、いくら語学だけ勉強しても、コミュニケーションの輪に入っていくことはできない。そして、そういう人しか表に出してはいけないのだ。幸い日本人でも、1/3ぐらいはそういう人がいる。これからの時代、大事なのは学力の有無より「自分」の有無なのだ。


(13/06/14)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる