essay 804

秀才のいた時代





秀才というのは、答えがある課題を解くのはとても得意な人達である。彼らはよく勉強して、試験でいい点をとるのが得意な人達だ。もちろんその答えは、数式の解のように一意に決まるモノも、最適解というレベルで答えを出すモノも含めてである。それはそれで一つの能力であり、TPOによっては大いに威力を発揮する。それどころではなく、そういう能力が必要とされた時期や社会も、世界史的には多く見受けられる。

貧しい発展途上の国は、ヒト、モノ、カネ、どのリソースも足りない「三ない運動」状態にある。こういう状況下では、与件が明確なだけに、成長戦略という意味では、現状を前提とした模範解答を出すことができる。秀才の官僚が活躍できる場面である。実際、アジア新興工業国の基礎をつくった発展独裁や、日本の高度成長を生み出した傾斜配分・護送船団方式など、20世紀後半の経済発展はその典型例である。いずれも秀才の官僚の活躍なくしてはあり得ない。

数式化できる問題を解くのであれば、かなり昔からコンピュータで迅速に処理できた。今や数万もしないパソコンでも、演算速度という面では1980年代の大型機を軽く凌いでしまっている。およそ実社会で解を求められる課題なら、かつてのようにプログラムを組まなくても、エクセルとか使っても充分実用的に答えが得られる。こういう問題は、いつでもどこでも簡単に解が求められる時代となった。

さて、秀才官僚が活躍したテーマの多くは、先ほど述べたような、限られたりソースの中で、どういうポートフォリオを組めば、全体最適が達成され、最大限の成長が得られるか、といいた課題である。すなわち、有限要素の最適化である。かつてはこういう課題をスマートに解くためには、人間の知恵が必要とされたが、今なら、コンピュータ・シミュレーションを駆使すれば、理論化せずとも容易に答えにたどり着ける。

やり方としては泥臭いのだが、とにかくコンピュータの処理速度が飛躍的に高速化したので、人間のタイムベースからすれば、驚くほど速く答えが出てくる。最近人間を破って話題となった「将棋ソフト」が強くなったのは、コンピュータが超高速化したので、制限時間内に全手読み切りが可能になったからであるというのと同じ理由である。社会的実用性という意味では、人間に処理時間を感じさせない内に答えが出てくれば、それで正解なのだ。

一方、近年問われている社会的な課題は、それが経営的な問題であっても、政治的な問題であっても、こういうカタチの正解や最適解を求めるタイプのモノではない。不確定性が高く、定量的に取るべき答えが導き出せないのだ。こういう課題に対しては、最終的に誰かが腹をくくってリスクを取り、どの道を選ぶか判断しなくては、とるべき道は決定できない。腹をくくってリスクを取るのは、コンピュータではできず、人間しかできないものである以上、そっちの役割こそが人間に求められているのだ。

もちろん、取り得る方策毎に、そこから得られるメリットや、そこに潜むリスクを定量的に計測し評価することは可能である。戦略コンサルなどに頼めば、それなりに客観性のある手法で評価してくれるだろう。しかし、不確定性の高い事象では、各戦略の評価値の差異はどんどん小さくなる。結局は、誰かがリーダシップを発揮して「決める」ことが必要になる。逆にいえば、明確に評価値に差が出てくるような評価を、わざわざ高いコストをかけてやるのも無駄である。

ある意味、20世紀の後半ぐらいまでの状況下では、今でいう新興工業国のようなテイク・オフ期の国家では、秀才の官僚も使い道があったことは確かだ。しかし、今やそこに期待されていた役割の多くは、トップが直にエクセルでも使えば、簡単にできてしまうような作業でしかなかった。真面目さ、秀才性でいえば、ITの方が秀才より数段上なのは間違いない。そもそもコンピュータというのは、そういうために使う手段なのだ。

コンピュータの進歩により、センスと表現欲のある人なら、職人的スキルの修行をしなくても、画像でも音楽でも、自分の表現したい作品を創れるようになった。20世紀末からの現代アートの変化がそれである。同じく、センスと決断力のある人なら、知識やノウハウを自分の中に積み重ねなくとも、必要な情報を瞬時に手に入れ、リーダーシップが発揮できるようになった。この時代の変化に、人間の価値観がまだついていけていない状況なのだ。

こつこつ知識をつけたり、努力したりしても、コンピュータにはかなわない。その一方で、天才的なセンスを持った人間は、飛躍的に情報化した社会インフラを活用し、次々とリスクに挑戦し、それを自分のチャンスに変えることが可能になった。ある意味、こんなことはパソコンが出始めた1980年代から語られていた。現状は「秀才」達が、20世紀に持っていた既得権をなんとかキープしようとしていることに他ならない。まさに秀才の代表たる官僚たちが、旧来の利権をなんとか手放すまいと汲々としているように。


(13/06/22)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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