essay 805

幻想が権力を生む





権力に対して、自分にオイシいことをして貰いたがったり、バラ撒きを求めたり、自分が有利になる許認可規制を求めたりするヒトがいる。自助努力をせず、自分を弱者と規定するコトで、あわよくばいい思いにありつこうという「甘え・無責任」の権化らしい人達である。財政的な基盤や制度としてのフィージビリティーを考えず、ひたすらアレをくれコレをやれと主張する「革新」政党や労働組合などその典型であろう。

ある意味、日本の庶民としては、なるほど素直なオピニオンでもある。確かに高度成長期においては、地域や階層の違いにより。その恩恵にあずかる度合いにタイムラグがあったので、「俺の方にも分け前をよこせ」という分捕り合戦も意味がなかったわけではない。しかし、その恩恵が全国津々浦々に行き渡り、社会のベースが安定成長となった1980年代以降においては、それはもはや意味を成さない。親の脛齧りが、もっと小遣いをくれと文句をタレるのと同じである。

個人の思想信条は自由だし、意見の多様性は何物にも増して尊重されるべきである。したがって、個人の意見としては「甘え・無責任」でも構わないし、もっとバラ撒いてくれと叫ぶことも自由である。だが、無い袖は振れない。主張したことが実現しなかったなら、そこでなぜ実現しなかったのかを考えて納得すべきである。それが見えているからこそ、自立しているヒトは、お上に何も求めない。ほっといてくれ。それだけだ。

だが、そこに便乗するのが、やはり「社会的弱者」の一員であることを標榜したがる、秀才が成り上がった官僚である。実際、貧しい生まれながら篤志家などの支援を受けて、試験の成績の良さだけで成り上った人も多いのだろうが、戦前の「革新官僚」の頃から、高級官僚はなぜか「持たざる者」の味方というスタンスを取っている。そして、その完成されたスキームが今に続く「40年体制」である。

「弱者を救うバラマキ」は、自らの利権構造を隠蔽し正当化するための、強力な理論武装となっている。実際は自らの天下り先を増やし、そこで自らオイシイ思いをすることが目的なのではあるが、「弱者を救う」という大義名分があれば、大きな政府による大きな無駄遣いも、まさにお国にためということになってしまう。それを求めているヒトたちが先に存在しているという構造は、免罪符としてはなにより好ましいものである。

強い権力、大きな政府によるバラマキを求める、「甘え・無責任」な多数の庶民。それを「弱者」と規定することで、自らの利権構造に社会のためという錦の御旗を掲げられる官僚。それが民主主義により結びついたとき、最悪・最強の内向き権力が生まれる。まさに持ちつ持たれつ、阿吽の呼吸とも言える絶妙の関係が、高度成長による財政基盤をバックに増殖したのが、20世紀後半の日本社会である。

ノブリス・オブリジェの対極にある、無責任な庶民の生んだ幻想が、権力を生みだし、支えているのだ。この構造は、無責任な庶民がいる「民主主義国家」であれば、日本に限らずいつでもどこでも登場する。かつての貿易摩擦の問題を思い出してもらえばわかると思うが、アメリカのロビイング団体も似たようなものである。あの時日本車を打ち壊したのは、自動車産業の労働者たちであった。利権を目の前にして平静を保てるのは、よほどストイックな人格者だけである。

誰もが共通に持つ恐怖感が、お化けや妖怪を生み出す。その意味で、お化けや妖怪は実在している。同じように、庶民が共通に持つ「甘えたい気持ち」が、権力を作り、育ててしまう。まさに、何もしないでもバラ撒いてくれる存在がいてほしいという共通の幻想が、「一人一票の多数決による民主主義」というシステムを通して実現してしまったものが、現代的な権力構造なのだ。バカは死んでも治らないではないが、庶民が甘え・無責任を卒業することはない。となれば、ここからのブレークスルーは、民主主義をやめることしかない。


(13/06/28)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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