essay 806

アンタッチャブル





日本人は、ルールを変えることを極端に恐れる、というより、生理的に嫌がっている様にさえ見える。ルールが唯一絶対であり、それを変えることは絶対にありえないという、タブー化さえしてしまう。改憲問題などその典型だろう。いつも言っているように、現行の日本国憲法は、運用解釈で自衛隊を保持できている。一切の武力を否定する平和主義者なら、護憲ではなく、自衛力さえもてないような憲法改正を主張すべきであろう。

法律や政治の問題だけではない。スポーツのルールや、取引の契約条件などについても、現状決まっているモノを変えることには、頑なに抵抗する人が多い。いかに現行のルールに矛盾があったり、破綻をきたしたりしていてもだ。たとえば、柔道が国際化に棹差しているのも、こういうルールの変更を拒否する人達だし、変更されたルールの内容が日本に不利だと、人種差別だとわめく人達もいる。

しかしルールの変更は、人種差別ではなく、日本選手に有利すぎてフェアでなくなっているからこそ提起されたことだ。ルールを既得権化しているのは、それをウマく利用して常勝した日本選手のほうであり、それはゲームとしてフェアでないというのが世界の見方だ。そもそもルールやレギュレーションは、時流に合わせたり、時流を先取りしたりして、どんどん変えるべきというのが、グローバルスタンダードである。

ルールなどというのは、結局のところ参加者の間の契約である。だから、参加者が合意すればいくらでも変えられる。参加者にはルールを変える権利があるし、不都合があるなら変えなくては、ルール自体が有名無実化してしまう。そのルールがイヤなら、参加しなければいいだけだし、面白いと思えば、新しいメンバーが加わるだろう。硬直化したルールを後生大事に守る方が、よほどエキセントリックであり、参加者を減らす要因となる。

では日本人がルールを忠実に守る原理主義者なのかというと、あにはからず。決してそんなことはない。実は、ルールはなるべく自分に都合良く解釈し、運用で好き勝手してしまおうという人種だ。決め事はあまり細かく決めず、運用と解釈でどうにでもなるようにするのが日本のオキテである。だから、ルールそのものも、できるだけ抽象的、観念的なものにし、具体的な拘束力を曖昧にしたがる。

これは、日本の契約書の作法をみればよくわかる。そもそも日本の契約書は、最近でこそ訴訟リスクを反映して多少細かいものも増えてきたが、それでも欧米の契約書と比べれば、格段に条項が少なく、全体も薄い。それだけでなく、全部を明文化せず、これ以外の問題が起きたときには、当事者で協議するみたいな曖昧な条文で済ませるものもまだまだ多い。これは結局、そういうアイマイな方が好きなことを示している。

ルールを変えたがらないのは、ルール変更を言い出したものには、ルール変更に伴う責任を全て負うことになるからだ。その責任を負いたくないから、ルールの変更を誰も言い出さないのだ。それだけでなく、厳しくルールを運用され、いちいちルールとの適合性をチェックされるのはイヤだという、ある種のひがみ根性も強い。我田引水をやりたいからこそ、杓子定規にルールを規定し運用されては困るのだ。

本来は、責任を持って自分の信念に従ったルールを作り、それに従えばいい。そのルールに従うメンバーの間では何らかのメリットがあり、そうでない人々との間で「差」がつけばそれでいい。そのメリットがほしい人は仲間として集まってくるだろうし、そうでない人は仲間として扱わない。これは何かに似ている。そう一神教だ。ルールに対する意識の違いは、八百万の神と一神教の違いによるところが大きいのだ。

一神教では、唯一の神と自分との間だけの関係しか問題にならない。神に誓いを立てる反面、神は何でもお見通しである。嘘をついてゴマかしたり、逃げたり隠れたりすることはできない。自分の唯一神に対する責任が常に問われるため、どんな場合でも自分の責任を見つめ、受け止める必要がある。どちらにしろ、自分の責任からは逃れられない以上、神との契約の下に自分の信念を貫くしかない。

八百万の神では、たくさんの神に気を使う関係性が求められる。たくさんいる神の中には、いろいろな立場の神がいる。あちらを立てればこちらが立たず、なんて関係の神もいる。ということは、いろいろな神と組むことで、状況に応じてスタンスを変えられるのだ。どの神にもいい顔をする必要があるものの、その分TPOで調子よく立場の使い分けができるので、責任は曖昧になる。周りを気にしなくてはいけないが、その分個人は無責任でいられる。

そもそも、いかようにでも解釈できるルールは、もはやルールではない。何でも叶えてくれる魔法のランプではないが、なんでも正当化してくれる魔法の法典である。しかし、これでは権威も拘束力もありえない。みんながそれを恭しく奉るのが便利だから、その権威を保っているかに見えるだけである。まあ百歩譲って、それで通用する社会なら、問題が起きなければそれでいいかもしれない。しかし、こんなやり方が通じるのは、内輪だけである。せめて、日本のルール観はガラパゴス化していることだけは、理解して欲しいものだ。


(13/07/05)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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