essay 807

正しい保守





20世紀後半の日本を支えてきた政治体制である「55年体制」下では、なぜか、保守とバラ撒き行政が結びついてきた。しかし、よく考えると、保守とバラ撒き行政が結びつく必然性はないし、結びつく方がおかしいのである。真の近代的保守なら、なによりも近代資本主義体制を成り立たせる基盤となっている、自由経済の信奉者でなくてはいけない。そしてそれは本来、バラ撒き行政とは相容れないものなのだ。

そもそも保守は、復古主義ではない。近代社会において、秩序とルールを重視すること、権利より責任を重んじることが保守なのである。そして、近代社会が大衆社会化している状況においては、本当の保守は、それ自体強い少数意見にしかなりようがない。この面からも、保守と自由主義の親和性は高い。自由主義は、市場原理を重視することに本質がある。市場原理は、実は強い少数意見にやさしい。俗にロングテールと呼ばれるニッチ市場が成り立つことが、それを示している。

20世紀後半の日本社会を規定してきたのは、「40年体制」と呼ばれる、第二次世界大戦下に成立した官僚主導の「大きな政府」を基本とするスキームである。この体制自体、「革新官僚」と呼ばれた社会主義的な結果の平等を信奉する若手官僚と、同じく無産者出身で偏差値だけで成り上ってきた軍部のエリート将校の合作である。ここで規定された政策や体制は、どう見ても保守ではなく、その対立物である。国家社会主義という表現があったが、自由主義を否定し多分に社会主義的な政策である。

それは、「40年体制」が成立したプロセスを見てみればよくわかる。階級社会を前提としていた明治憲政体制は、有責任階級が政権を担う限りにおいて、19世紀末から20世紀初期にかけてのグローバルレベルのガバナンスへの要求を、きちんと果たすことができる優れたシステムであった。憲政初期においては、江戸時代のスキームを受け継いだ「華族」階級が有責任階級となることで、まさに19世紀的な立憲君主国としての秩序を確立できた。

20世紀に入り、世界的に沸き起こった大衆社会化の波に対しては、まず地主や資産家などの有産市民階級が有責任階級となり、納税額に基づく制限選挙による議会を通して、それまでの貴族層に変わり政治の主体となることで対応した。これが、大正デモクラシーから昭和ヒトケタの時代に花開いた「政党政治」である。しかし、普通選挙の実施と共に政党の大衆化が起こり、利権政治、金権政治が横行し出したのである。

実は、納税額に基づく制限選挙というのは、義務と責任という意味においては極めて有効なシステムである。初期の帝国議会においても、議員たちは「自分達が納めた税金が無駄に使われてはいないか」という監査機能を発揮し、政府の勝手な支出拡大に対し強力にダメ出しをした。自分たちが納税の義務を果たしている以上、その使途にはモノを申すし、議会が強力なチェック機能を持つことでその責任を果たすことができる。

実は明治憲政においては、発言権さえ担保されれば、少数意見でも認められた。実際、帝国議会では、いろいろなバックグラウンドを持つ利益代表が、自分たちの納めた税金の使い道をチェックするという視点から、政府の行動を厳しく批判した。予算に対する厳しい判断は、それが主義主張ではなく実質に結びついているからこそ、一筋縄ではいかない。軍事予算がカットされることもしばしば見られた。だが大衆社会化が、それを奪ったのだ。

すなわち、納税額に基づく制限選挙で選ばれた議会は、政府のバラマキや無駄遣いは許すことはなく、必然的に小さい政府を目指すことになる。明治憲政期における政党政治は、この伝統をベースとして引きずっていた。だからこそ、大衆のパワーをベースに、アンチ政党、アンチ資本主義として、「革新官僚」と軍部が勃興し、それらを打倒することで、「40年体制」と確立したのである。事実、大正〜昭和初期は、自由なマーケットに基づく健全な資本主義が日本にもあった。多くの個人投資家の存在や頻繁なM&Aが、それを示している。

満州事変以降、日本軍はルールに則った指揮命令系統からの正当な指示で動くのではなく、ルールの影でこそこそと影で既成事実を積み上げ、にっちもさっちも行かなくすることで、自分たちの行動をオーソライズしてしまうという手法を繰り返してきた。こういう現場でのなし崩しこそ、正統的な保守主義者が最も忌み嫌うものである。これを見ても、「革新官僚」や軍部が「保守」と対立する存在だったかがよくわかる。

そういう意味では、日本においては普通選挙が実施される前の明治憲政のあり方を目指すことこそ、「近代的保守」なのだ。そして、「保守」はルールや秩序を重んじるからこそ、我田引水な運用解釈による、バラ撒きや天下り利権作りを許さない。今の日本に必要なのは、市場原理に基づく自由主義と、ルールや秩序を重んじる「保守」が結びついたイデオローグである。これこそ、40年体制化に跋扈した「エセ保守」ではなく、真の保守である。

間違いなく、この主張はクラスターとしては「少数派」である。過去、このような主張をしてきた政党の支持率を見ても、5%〜10%がせいぜいである。しかし、確固たる意見を持つという意味では、強い少数である。だからこそ、利権バラ撒きの共同幻想でしか求心力をもち得ない、数だけは多い多数派との間でいい勝負になる。「自立・自己責任」の少数対、「甘え・無責任」の多数。この好勝負が成り立つカギこそ、真の保守の確立にある。


(13/07/12)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる