essay 808

マイノリティーを救う市場原理





日本においてはいわゆる「40年体制」確立以降、一貫して「大きな政府」しか経験してこなかった。普通選挙施行後の昭和初期の政党政治も、大衆レベルの票を集めなくてはいけないがゆえに、急速に大きな政府を志向するようになっていたことを考えると、今の日本人は、経験としては大きな政府しか知らないことになる。そういうワケで、政府や行政と国民個々人との関係も、必然的に大きな政府だけをベースとして考えがちである。

「高福祉」とか「ハイレベルのセーフティネット」とか、バラ色の言い換えはいくらでもできるが、結局のところ、大きな政府とは突き詰めれば「バラ撒き利権構造」である。一旦徴税したお金には色がついていないのをいいことに、バラ撒く官僚とバラ撒かれる庶民とが共同して、本来国民の汗の結晶である税金を、「天下の周りモノ」として、労せずして自分たちの懐に入れてしまおうとするスキームに他ならない。

こういうシステムである以上、バラ撒かれる方も、少しでも多くブン取りたいと思うのは至って自然である。利権システムでは、一人一人が自力でバラバラに糧を得るのではなく、糧の出口は親方日の丸一カ所しかないのが特徴である。従って、その「一カ所の出口」の周りにボリュームゾーンができる。少しでも多く分け前を得るためには、パイの大きいところにみんな群がるのだ。利権周辺が圧倒的にマスのボリュームゾーンとなるのは、大きい政府では必然である。

そこで起こることは、画一化である。大きい政府は、バラ撒きの蛇口が一つであるために、その利権構造からして、必然的に画一化を生むのだ。画一化がもたらすものは、マイノリティー無視である。大きい政府は、ボリュームゾーンの利益は考えても、マイノリティーの利益や権利を守るモチベーションを持っていない。「少数者に与えるものがあるなら、ボリュームゾーンにもっとよこせ」となるし、まして民主主義なら、マスの利害が圧倒的に政策に反映されることになる。

市場原理は、その前提として、機会の平等と参入の自由が絶対的な条件になる。従って、市場原理が働く環境では、マイノリティーに対する差別は起こりえない。それは、市場原理の絶対条件と抵触するからである。よく誤解されるのだが、実は市場原理は自由主義と呼ばれるように、常にフェアで自由な競争が行なわれ、市場の見えざる手によってのみ帰趨を決するところに特徴がある。特定のクラスタが有利になったり、特定のクラスタが排斥されたりしては、公正な競争原理は働かなくなってしまう。

そもそも小さな政府では、参入障壁や許認可利権は存在しない。小さな政府は、規制をするような機能は持たないし、バラ撒くような余計な財源も持たない。市場原理が機能するところは、全て見えざる手にゆだねるのだ。だから自己リスクで参加するなら、誰だろうと皆チャンスがある。もっとも、それで成功するかどうかは、当人次第。成功とは、メジャーになることではない。規模と関係なく、事業が継続的に成り立つことである。

小さい規模ではあっても、事業が継続できれば存在が認められ、居場所があるのが市場原理である。たしかにメジャーなマーケットは勝者総取りになるものの、勝者といえどもマーケットの全てを取ることはできない。見えざる手による最適配分の結果は、マスの勝者は確かにいるものの、その周辺部に、多くのニッチなマーケットもそれなりに存在する均衡になるのが特徴である。一時「ロングテール」と呼ばれて話題になったが、ビッグビジネスと同時に、小さいが多数のニッチマーケットも成立してしまうのが、市場原理による均衡の特徴だろう。

現代の日本は、ビジネスについては比較的自由主義経済が機能している。分野によって行政による規制もあるものの、基本的にはやりたい人がやりたいビジネスをやるチャンスは担保されている。そういう中で、セクシャルマイノリティーを対象としたマーケットが成立していることなど、市場原理とマイノリティーの関係を示す典型だろう。いまや「二丁目」というだけで通じるほど、新宿のゲイタウンは、地上波TVでもしばしば取り上げられるような「観光地」になってしまった。関西で言えば「堂山町」である。これらの地域は、ビジネスとしてみれば安定的な社会的存在感がある。

もっと全国に視野を広げてみよう。ジャズ喫茶ができるぐらいの商圏規模があれば、セクシュアルマイノリティーのたまり場としてのバーやスナックは成り立つ。地方の中核都市ならば、どのぐらい知られているかはさておき、その手の店は必ず存在する。もうちょっと大きい規模の都市になると、ハッテン場として客があつまる映画館やサウナが存在する。自立的に経営が成り立ちさえすれば、なにも干渉しないのが市場原理である。需要があるところ、必ずそれに見合った供給は生まれるのだ。だからこそ、自由主義なのだ。

過去の歴史的経緯を知らなくとも、バラ撒き利権と天下り利権をキープするコトしか考えていない日本の官僚制が、大きな政府を指向しているのは明白である。行政制度がマイノリティーに対し冷淡なのは、大きな政府を目指している以上当然である。大きな政府である日本の行政に対し、マイノリティーが見返りを期待するほうがおかしい。その反面、まがりなりにも自由経済が貫徹し、市場原理が働くビジネスの分野では、マイノリティーマーケットは、規模こそ限度があるものの、充分に機能し、自立した存在感がある。

マイノリティーは、マジョリティーより自立性が強い。そうでなくては、自分のアイデンティティーがキープできないからだ。だからマイノリティーこそ、自分たちにもバラ撒きを求めるのではなく、自己責任で自立可能で、個人になにも干渉しない、小さい政府を求めるべきなのだ。市場原理の小さな政府においては、小さくとも安定的なマーケットが確立することこそ「正義」であり、そこには何人も干渉できない。

マイノリティーが、大きい政府に向かって、自分たちにもバラ撒きの分け前をよこせというのでは、お門違いも甚だしい。また、相手から色よい返事がもらえる可能性も期待薄である。マイノリティーだからこそ、マジョリティーから独立し、自立したスキームを持つべきである。世界的に見れば、少数派の民族こそ、自主独立の気風が強く、自分たちの独立国を強く求めている。マイノリティーの権利こそ、自立によってしか得られないことを知っているからだ。

日本のような経済の発達した先進国においては、なにも分離独立を求める必要はない。フェアで自由な競争が行なわれていれば、かならず安定的なニッチが存在する均衡に行き着くからだ。マイノリティーの生き方や価値観を守る最適な道は、この「安定的ニッチが存在する均衡」の実現にある。これができれば、誰かに守ってもらうのではなく、自分の世界は自分で守ることができる。そのための強い味方が、市場原理であり、それに基づく小さな政府なのだ。


(13/07/19)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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