essay 809

小さい政府とマーケティング





TPPではないが、日本では長年跋扈してきたバラ撒き・許認可利権の官僚制と呼応し、何かあると、すぐ規制で保護してもらったり、手厚い補助金を支給させたり、といった政策を求める人達が多い。しかしこのような態度は、いつまでも補助輪付きの自転車に乗っているようなものである。テイク・オフ前の最貧国ならいざしらず、成熟した経済を持つ国にしては、至って恥ずかしい。にもかかわらず、それが恥ずかしいことであるとさえ思わなくなっているほど、感覚が麻痺しているのが、今の日本人なのだ。

事業は、自立し、安定的に再生産が可能になってはじめて一人前である。規制による保護や、補助金による支援がなくてはなりたたないようなものは、事業とは呼べない。その中でも最も重要なのが、継続性である。事業であればこそ、継続性すなわちゴーイング・コンサーンを重視するのは当然であり、目先の金だけかっさらってオシマイというのは、事業ではない。継続性とは、言い換えれば、将来に渡って得られる収益の現在価値を極大化することである。このような中長期的発想は、全体最適の実現につながる。

古くからあるたとえだが、今目の前にある小麦を、すぐに全部喰ってしまっては、それで終わりになってしまう。全部を消費してしまうのではなく、一部を将来のためにとっておき、それを、蒔いて、育てて、増やして、毎年喰えるようにするのが、事業の原点なのだ。人類が、野生と変わらない狩猟から、農耕・牧畜に踏み出したことで、社会性が生まれ、進化した。人類は、事業の発想を持ったからこそ、野生から進化したのだ。

まさに短視眼的な最適化、部分的な最適化ではなく、全体最適を実現する視点を持ったからこそ、事業という発想が生まれた。そして、そのベースには安易な短期的部分最適に走らない、「自立・自己責任」の精神が不可欠であることも理解できる。だからこそ、事業が健全に運営・発展するためには、市場原理・競争原理を重視し、自由主義に基づく機会の平等と、その結果については棹を挿さず受け入れるオープンマインドが必要になる。

市場の調整機能に任せて均衡を図る「神の見えざる手」の考えかたは、なにより自由主義の基本である。資金力にモノをいわせタダで商品を配りまくるような、不当な低価格販売に代表される市場への不当な介入や、日本ではすっかりおなじみだが、自由な競争を妨害するような、不当な規制や許認可権限などは、まさにこの「神の手」に楯突く行為である。全てを「あるがまま」の自然な状態にキープするのが、自由主義の大原則である。

これは言い換えれば、市場の決定権・選択権が、送り手側ではなく受け手側にある状態ということを意味する。すなわち市場原理とは、マーケット・インが達成された状態を理想としている。その意味でも、日本のように、「大きい政府」とプロダクト・アウトが結びつきやすいことは理解できる。規制で参入障壁を高くし、その限られた企業に対し、さらに補助金などのバラ撒きを行なって優遇すれば、供給者は上から目線になって当然だからだ。

古典派、新古典派を問わず、自由主義による市場原理を均衡の基本に置く限り、送り手の思い上がりは通用しないのだ。市場原理が成り立つのであれば、そのビジネスがボリュームゾーンで成功するのでも、ニッチで成功するのでも、そのカギは受け手の側に評価され受け入れられていることが前提となる。すなわち、市場原理主義とマーケティングとは、極めて相性がいい。というより、市場原理主義に立つ限り、唯我独尊の上から目線では成功せず、マーケット・インのマーケティング発想が必須なのだ。

これまた、日本のメーカーが総じてマーケティングに弱かったり、マーケティングの発想そのものがなかったりすることと通底している。「大きい政府」しか知らない現代日本人は、根本的なところで勘違いをしている。「小さい政府」になれば、その根本が市場原理にある以上、社会的にも、あくまでも受け手が主体のマーケット・インが実現している。生活者は、気に入らないものは手に取らないということで、送り手側の生命線を握ることができる。

市場原理においては、ゴーイング・コンサーンが成り立てば、それは社会的に認められ、存在基盤が確立したことを意味する。まさに、言論の自由、思想信条の自由も、コミュニケーションにおいて市場原理が成り立っているからこそ、保証される事柄である。この点、「リベラル」な人ほど排他的で、自分の意見だけが正しく、対立する意見はその存在すら認めない頑なさを持ちがちなのと、際立った対照を示している。

もともと民主主義も、市場原理を政治的意思決定に導入したものである。であるならば、「神の見えざる手」の担保は必須であり、その政治機構は「小さな政府」でなくてはならない。民主主義と「大きな政府」とは相性が悪い。というより、親方日の丸のバラ撒き政治になるのは必然である。そして、「小さな政府」の元においてセーフネットや福利厚生を担保するのは、実はマーケティング的発想に他ならない。

かつての公害問題も、東電の原子力村の問題も、目先のコスト極小化という、極度の部分最適発想が生み出した弊害である。全体最適でのコスト最小化を考えれば、ディスクローズしてキチンとした対策コストを払った方が、結果的に得になるのは明解だ。マーケット・インのマーケティング的発想をしていれば、ためらわず全体最適を選ぶはずである。社会全体での全体最適を達成してはじめて、個々の事業レベルでも最適化が達成される。

任期が限られ、その間にどれだけ自分のフトコロが潤うかを考えてしまうサラリーマン社長では、こういう発想は不可能だろう。経営にも、ノブリス・オブリジェが必要なのだ。そして、市場原理、小さな政府、ノブリス・オブリジェは、全体最適のためには三位一体である。実は、マーケット・インのマーケティング的発想は、このような環境をベースにしていなくてはなしえない。そう考えると、その際たるものであるブランド・マーケティングについては、日本企業が得てして苦手である一方、階級社会をベースにした欧州企業に強みがある理由もよくわかるだろう。


(13/07/26)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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