essay 810

思考停止





ここでもすでに何度か論じているが、日本人はとにかく戦略的発想やヴィジョンを持つことが苦手である。もちろん、戦略的発想をできる人材や、将来的ヴィジョンを見通せる人材は、世界中どこへ行っても少数派である。だからこそ、それが才能なのだ。もちろん、日本人でもそういう才能を持っている人材はいるし、その存在確率も決して諸外国にヒケを取るものではない。ここで言っているのは、そういう問題ではない。

モノゴトを進めていく上で、そういう考えかたが不可欠であり、成否のカギを分けるモノとなっているという認識が広く共有されていないのが問題なのだ。大多数の人々が、自らは戦略やヴィジョンを生み出せないとしても、その重要性を認識し、それを生み出せる人材を尊重するかどうかが重要なのである。この点、日本社会は根本的に立ち遅れている。誰かが決めた「決め事」の隙間を泳ぐのは得意でも、決め事そのものにコミットできないのだ。

こういう構造的欠陥を持っているがゆえに、それなりに世界に通用するヴィジョナリーな人材がいたとしても、それを活かすことができない。特に組織的に活用することは、決定的に苦手である。従って、そういう人材は、ベンチャー的に自分で事業を立ち上げるか、海外で評価されるか、ということになる。戦略的視点や発想の欠如という構造的問題は、ジャンルを問わず日本社会のあらゆる局面で如実に見ることができる。

これまた何度か分析したコトがあるが、日本の理系のアカデミズムが暗くてつまらなく、いわゆる「理系離れ」を起しているのも、この影響が大きい。本来の理系的なモノの見方になくてはならない、実験や統計調査は、実験以前の仮説構築が最も重要である。そしてこの仮説の構築においても、必要とされるコンピタンスは、戦略やビジョンを構築する能力である。実験する前から、およその答えが見えていなくては、どういう実験でそれが証明するか考えることはできない。

「実験計画法」をきちんと理解してれば、このぐらいわかっていてもおかしくはないのだが、ここをきちんと指導できる理系の教授は限られている。逆に発想力が乏しく、演繹的にしかモノを考えられないヒトが、大学に残って理系の先生になるコトの方が多いのは、何をかいわんやである。かくして、仮説もないまま「まず実験してみる」「まず調査してみる」をいう罠に落ち込むことになる。これでは、折角のデータがあっても、何も読み取れないことになる。

昨今「ビッグデータ」が話題となっている。しかし、世界観というかアウトラインがわかっていれば、どんなにデータが多くても悩まないし、困らない。結論が見えていない状態で、膨大なデータをイジろうとするから、かえって何が何だかわからなくなってしまう。結論は、演繹的に導くものではなくて、アプリオリに決め打つものなのだ。それが戦略的視点のカギである。最初に仮説がない人間は、どんなにデータがあっても、そこから結論を出すことはできない。

これはまた、戦略コンサルに代表されるコンサルタントの使いかたが下手ということにも繋がっている。コンサルティングビジネスをした経験はかなりあるが、妙なことに日本の組織人には、「答えをコンサルに出してもらいたがる」人種がけっこういる。コンサルティングでできるのは、クライアント側が持っている戦略プランについてその可能を客観的に評価したり、複数のプランについて評価し、順位をつけたりといった作業である。

たとえば、海外で新たな国に進出するとき、パートナーとしてA社・B社のどちらがより望ましいか、などというテーマなら、外部からかなり客観的な評価を下すことが可能である。しかし、「何をやればいいのでしょうか」などと聞かれても、客観的な答えは出せない。何をアウトソースし、何を自分が決めるのか。戦略を立てるのは、どう考えてもクライアントのコアコンピタンスである。そのフィージビリティやリスクを評価するのは、専門性の高いノンコアである。

日本の製造業、特にオーナーではなくサラリーマン社長の企業では、戦略的発想がなく、業務レベル、戦術レベルの小手先のプランしかないところが多い。元々ない以上、グローバル化により戦略的発想を求められてはじめて、どうすりゃいいんだと右往左往することになる。だからといって、それを外部に求めてもはじまらない。トップを総入れ替えして、戦略的発想ができる人材を取り込むコトも不可能ではないが、この期に及んではもう遅い。

同様な構造的問題は、裁判の使いかたが下手というところにも現れている。裁判所は、審判するところではあっても、何かを指示してくれるところではない。原告、被告、それぞれの立場からの解釈があり、主張がある。それを法律や判例に照らし合わせて、どちらの解釈がより妥当かを判定するだけである。ということは、「自分なりの解釈」を前持ってきっちり持っていなくては、裁判所の判断を仰ぐ意味がない。

これもある種の仮説構築力である。もちろん、弁護士の中には、こういう仮説構築力に長けた人もいる。しかし、それができるのは、ごく一部の有能な人に限られる。大多数の弁護士は、依頼者の側が構築した仮説に対して、法律や判例を駆使して、その論拠を与える以上の仕事はこなせないのがふつうである。これまた、グローバル企業の法務セクションなどでは当たり前のことだが、なぜか日本の社会通念とはなっていない。

だからといって、最初に言ったように、全ての人間が戦略的発想をしなくてはいけないということにはならない。そもそも、それは才能の問題なので、無理というものだ。大事なのは「仮説なくして実験なし」ではないが、この原則を理解することにある。最初から答えが見えていてはじめて構築できる、戦略や仮説こそが重要だということを、みんながきちんと知り、そういう人材を大切にすることが必要なのだ。これは、そんなに難しいことではない。ただ、既得権を奪う結果に繋がるだけに、多くの人が認めたがらないことなのだが。


(13/08/02)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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