essay 811

コミュニケーションの変質





かつてインターネットが出始めた頃、このフラットでオープンなメディアが、あらゆる人々に発言のチャンスを与え、世の中が大きく変わるきっかけになると、多くの人が持て囃していた。確かに当時は、意識も知的レベルも高い、先端的でアカデミックな世界で活躍する人達しかインターネットを使っていなかったので、希望的観測を含めて、そういう「勘違い」が起こったのもむべなるかなということができよう。

さすがにその後インターネットが普及し、特別な選ばれた人々ではなく、市井の庶民が日常的なベタなメディアとしてインターネットを使うようになると、そういう「勘違い」は減ってきた。インターネットとはいえ、みんなが使うようになると、レガシーメディアと何ら変わらない使いかたしかされない。だが、いまだにインターネットが「特別なもの」であってほしいと願っている「エバンジェリスト」な方々もあとを絶たない。

そういう人には申し訳ないが、メディアや情報環境が人を変えることはないのだ。最初期のトンガった使いかたしかない時代は、極一部のトンガった人々の間でしか広まらない。普及するというのは、そういうエッジな使いかたが広まるのではなく、ごく普通の日常と密着したベタな使いかたが創発的に生まれ、それがボリュームゾーンに広まって初めて起こることなのだ。普及した時点で、メディアはトンガったモノではなく、ベタなモノに換骨奪胎されているのだ。

その傾向は、なにも日本だけに特徴的なことではない。欧米でも普及率が高まると共に、顕著になってきている。その際たる現象が、昨今、欧米のインタラクティブな世界でよくみられるようになった。建前として正しい(ポリティカリー・コレクト)な論調しか、インタラクティブでは通用しなくなってしまったのだ。「エバンジェリスト」な方々に言わせれば、多様な意見が尊重される世界なはずだが、現実の世界以上に、正しいタテマエが多くの人の賛同を集めている。

結局、もし自分の意見が「正義のタテマエ」と違ったとしても、それを正面切って主張するためには、並々ならぬエネルギーがいる。そういうタテマエに抗して意見を言える人は、よほど強い人である。そして「正義のタテマエ」は、決して日本の専売特許ではない。「命は大切です」「差別はいけません」等々、正しいことを公式の場所で堂々と言われたら、それに対して意見を言うこと自体、並みの人間では怯んでしまう。ましてや、それを論破することなど不可能に近い。

そもそもエッジな人はさておき、ボリュームゾーンのマスな人々は、それほど主張は強くないし、命懸けで「正義のタテマエ」に反論するパワーなど持っていない。世界的に、その傾向は強いのだ。かくして、普及しベタなメディアとなったインタラクティブメティアの中では、「正義のタテマエ」は、水戸黄門の印籠のごとく、全員がいっせいにひれ伏してしまう存在となった。いくら匿名の世界とはいえ、表立って反論する人もいない。

かくして、インターネット上には、建前上の「いいこと」があふれている。その傾向は、現実の世界よりも強い。もちろんインタラクティブメディアでも、クローズドでマイナーな世界では、悪くてワクワクするモノもいっぱいある。しかし、それらはネットの世界でも、日の当らないアウトローな裏社会となっている。もちろん、そこでは多様な価値観が息づいている。しかし、それが表のマジョリティーの世界に浮き上がってくることはない。

これは、企業活動にも同じような影響を与えている。企業が個性を持ち、面白い企業、楽しい企業という存在感を持てるのは、リスクを取る人がいるオーナー企業だけである。サラリーマン社長を抱え、組織人からなる企業は、タテマエとしての「いい企業」にしかなれない。その傾向が、この「インタラクティブメディアのタテマエ化」により、一層強化されているのだ。だが、タテマエとしての「いい企業」は、リスクを取らないだけで、けっして真の意味で「いい存在」として社会に受け入れられているわけではない。

その企業の製品やサービスを全く買わない人達が、いくら反論し、炎上したとしても、おその企業の業績にはほとんど影響がない。ロイヤル顧客は来てくれれば、問題はないのだ。しかし、自分に自信のない企業は、顧客との信頼関係を実感できていないので、ひとたび何か起きると、必要以上に過剰反応しがちである。それは単にロイヤル顧客との絆を確立できていないだけの問題である。

そういう意味では、「正義のタテマエ」と違うからといって、自ら素直に自分を語れる人が、恐れをなしたり、バカバカしくなったりして、黙ってしまうのが一番恐い影響である。フラットでオープンであるがゆえに、きちんとした主張を持たない数多くの人々が、無難に支持する「正義のタテマエ」が、金科玉条のごとく大手を振ってしまう。これならまだ、旧来のリアルな世界の方が、余程自由で多様な意見が花開くという、「エバンジェリスト」な方々には、極めて皮肉な現実が生まれてしまっているのだ。


(13/08/09)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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