essay 813

社会的発達障害





反核の主張の基盤の一つとして、「核兵器は恐ろしいから核廃絶」という考えかたがある。1950年代までは主流だった戦術核兵器に関してなら、ある意味当を得た主張かもしれないが、その後の核兵器の主流ともいえる戦略核兵器に関しては、このような考えかたは的外れである。核武装する必要はないと考えるのは、核兵器が恐くないと思う人々だけである。戦略兵器というのは、本質的にそういうものであり、戦略兵器と戦術兵器の違いは、ここにあるのだ。

核兵器の恐ろしさを身に染みて知っているからこそ、自らも核武装して、それを抑止しなくてはいけない。自らも戦略核兵器を持っているものだけが、相手の暴走を止められる。核の悲劇を止められるのは、核の抑止力しかない。そもそも、喧嘩というのはそう言うものだ。もしコイツにケンカを売ったら、倍返しで痛い目にあう。それが周知の事実となれば、誰もケンカを売らなくなる。だから代紋を背負ったホンモノのヤクザは、喧嘩はしない。喧嘩するのは、小物のチンピラだけである。

平和とは、こういうものなのだ。平和とは、自ら勝ち取るもの、創り出すものであり、自分の力で維持しなくてはいけないものなのだ。それを実現するためには、抑止力が絶対に必要になる。強い抑止力があるからこと、平和を守ることができる。抑止力とは、こういうコトだ。さして強くないチンピラは、すぐ自分の力を誇示したがるが、本当に強い力を秘めているモノは、決してそれをひけらかさなくとも、コワモテでいられる。これが平和のカギなのだ。

すなわち、戦略兵器とは本質的に防衛的な兵器なのだ。強力だが、おいそれとは使えない。いや、絶対に使えないかもしれない。しかし、それを持っているからこそ、相手が喧嘩を売ってこない。力の均衡が大事なのだ。それに対し戦術兵器は、多分に攻撃的・侵略的な性質を持っている。持っていると、それだけで使いたくなり、ひけらかしたくなってくる。それを誰が持つかによって、こっちの方がよほど危険である。ここをわきまえずに、「専守防衛」だとか、この間の戦争が侵略的かどうかとか言われても、笑止千万である。

この点に関しては、日本人が戦略音痴という問題が如実に現れている。太平洋戦争の敗因の一つは、官僚集団でしかなかった帝国陸海軍には、戦術はあっても戦略がなかったことに求められる。鉄砲は撃てても、政治はからっきしダメ。それは今の日本の組織も変わっていない。そんな日本の政治家や官僚より、瀬戸際外交を思いつく金王朝のほうが、よほど戦略的思考ができるし、戦略的に行動している(もっとも、国軍が実質上治安部隊で、戦術的戦力にならないという事情もあるが)。

こと相手があるコトについては、相手がどう動くか、相手がどう出てくるかに、まず精通する必要がある。それを知らずして、自分の行動は決定できない。社会というものがインタラクティブに成り立っている以上、相手がある活動においては、いかに立場や考え方が違っても、相手の考えを考慮せずに動くことはできないのだ。誰にも全く影響がない単独行動ならいざ知らず、ほとんどの社会的活動において、これは基本である。日本がスポーツで勝てないのも、ここに原因がある。

しかし、コレができる日本人は極めて少ない。相手を視野の外に置いたまま、相手のことを考えるのは、妄想、思い込みの類でしかない。そういう妄想・思い込みでしか相手を判断できない人が、日本人にはなんと多いことか。相手の気持ちを理解しない一方的な「恋愛」は、ストーカー、セクハラでしかない。そして日本の男性には、ストーカー行為やセクハラ行為が極めて多い。この視野狭窄体質は、政治家や官僚にも同じように広がっている。

相手の気持ちを読めない「コミュニケーション障害」が、昨今問題になっている。他のプレイヤーが、相互に熾烈な駆け引きを繰り広げている中で、脳天気な自分の妄想が通じると思っているのは、ある種の発達障害、コミュニケーション障害である。特にヒドいのが、世界情勢さえ客観的に認識しようとせず、おめでたいお題目を夢想する「社会運動家」「平和活動家」である。そういう連中は、社会的アスペルガー症候群と言ってもいいだろう。

コミュニケーションが成り立つためには、まず自己を確立することが必要になる。その上ではじめて、相手を知ることができる。それは、自分が自立していなくては、相手を知ることはできないからだ。相手からは自分がどう見えているのかをわきまえてこそ、自分と相手との関係性を確立することが可能になる。ここまでやってはじめて、自分の立場を守ることができる。そもそも「社会的アスペルガー症候群」の皆さんは、その意識・行動のベースに他人への甘えがある。これではコミュニケーションが成り立つワケがない。

この自立した人間同士のインタラクションが、人間関係性のグローバルスタンダードだ。個人から企業、国家間に至るまで、海外における日本の交渉力のなさは、ここに由来する。社会運動家みたいな連中の脳天気な議論が、社会的に罷り通っている間は、日本が世界に通じることなどありえない。日本のグローバル化を考えるなら、英語教育以前に、信号さえ守っていれば絶対に事故に遭わないと思いこんでいるような、社会的発達障害の連中を断捨離することが重要なのだ。


(13/08/23)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる