essay 815

検閲もまた愉し





言論の自由もまた、思想信条の自由と同様に、健全な社会を築く上では重要である。しかし、言論の自由もまた、誰かから与えられたり、保証されたりする権利ではない。思想信条の自由と同様、勝ち取ってこそ意味があるもの、自分で実現してこそ意味があるものなのだ。検閲とか出版規制に反対し、言論の自由を強く主張する人々ほど、ここをはきちがえている。言論の自由で大切なのは、結果の自由である。それは、今までの歴史を見て行けば、すぐにわかることだ。

まがりなりにも言論の自由が法的に保障されるようになったのは、現代の自由主義国家では、大衆社会が成立した20世紀に入ってからという事例が多い。それまでは、どの国においても、多かれ少なかれ規制があるのが当たり前であった。今でも、言論の自由が保証されていない国もたくさんある。しかし、そういう状況下で多様なコンテンツが生まれなかったかというと、そんなことは全然ない。どんなに禁止しようと、ニーズのあるコンテンツは必ず生まれてくる。

禁書でも地下出版でもいいが、ニーズがあるものは、かならず作り手が現れ流通する。それに棹を挿すことができないのは、今までの歴史が語っている。たとえば日本でも、戦時中の軍国主義時代には、表向きは厳しい検閲制度があったものの、それをかいくぐって多くのアングラ・コンテンツが生まれ、広く流通した。それらの中には、戦後になってから、メジャーになったものも多い。文革時代の中国にもポルノはあった。今の北朝鮮にも間違いなくある。

基本的にそういうものなのだ。タテマエとして取り締まる側の役人が、実はそういう闇コンテンツのマニアだったりすることも、よく見受けられる。人間の本能、人間の習性がそういうものである以上、人々のニーズのあるコンテンツについては、結果の自由は担保されてしまう。もっとも、誰も見たくない・読みたくないコンテンツを世にバラ撒く自由は、この限りではない。しかし、それはトンデモさんや困ったちゃんの所業である。そんな自由を担保しても、みんな迷惑するだけだ。

さて、コンテンツの内容からしても、なんらかの規制があった方が、おもしろいモノが生みだす触媒となり得る。これには二つの理由がある。一つ目は、裏本であるが故のパワーである。裏ということは、言い換えれば超ロングテール。限定した流通を成立させるためには、一番濃いマニアに向けた、一番濃い内容のコンテンツでなくてはならない。当然、そのドギツさやインパクトは極大となる。今でも、一般向けより成人向けの方が濃いのと同じだ。

もう一つは、制作者サイドのモチベーションである。規制がある中でコンテンツを作るというのは、ある意味、規制の抜け穴を見つける楽しみが生まれる。いわば、規制する側と規制を破る側の知恵比べが起こるのだ。これは、当然いろいろなアイディアを湧き出させる誘因になる。規制が厳しければ厳しいほど、その抜け穴を見つけるアイディアが湧く。ヘア禁止の頃の方が、よほどエロ業界はクリエーティブでおもしろかったことを思い出してほしい。ただ見せりゃいいってモンじゃないのだ。

いつも言っているように、もとからルールなんて守る必要はないし、その気もない。相手の顔を立てるなら、せいぜい面従腹背で守っているフリをすればそれで充分である。それで、相手の面子は充分保てる。コレを地で行くのが、ハッカー精神である。人間が完璧でない以上、人間が作ったものには、かならず画龍天晴を欠く穴がある。それを発見した人には、そこを突く権利があり、突いても許される。これがハッカー精神の原点である。

最近、社会の遵法精神が高すぎて、妙に住みにくい世の中になっている。最近、ルールを重要視しすぎるきらい、守りすぎるキライが強い。コレは別に、日本人が皆品行方正になったということではない。そのカギは、ルールを守っていれば、責任を問われないというところにある。ルールを作って、それをみんなで守っていれば、誰も責任を問われず、安心していられるという気風が、この10年ほど蔓延しているのだ。

昨今の「ホームドア」も、表向き「乗客の安全確保」をうたっているが、実質は鉄道会社が責任を問われないための、仕組みと逃げ道を作っていることに他ならない。自己責任で、他人に迷惑をかけなければ、本来何をしてもいい。ただし、その結果の責任を自分で負うことが前提になる。責任を取れば、ルールなんかに関係なく、何でもできるのだ。ルールを守って無責任か、責任を取って自分のやりたいことをやるか。どちらがクリエイティブな結果を生み出すかは、一目瞭然である。


(13/09/06)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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