essay 816

責任からの自由





日本人には、言うまでもなく「甘え・無責任」な人が多い。そっちのほうが、圧倒的に多数派である。よく、日本人がグローバルに活躍するためには、ムラ意識を捨て「近代的な個人」を確立することが必要、などという論調があるが、それは単なる理想論を述べたものであり、必ずしも正解といえないし、実現可能な解決策とも思えない。実は、責任を取りたくないヒトには、無理に責任を取らせる必要はない。

責任を取りたくないヒトは、責任を取らなくても済むような社会システムを構築するほうが、今の日本社会の機能不全を解決するためにはよほど有効だし、よほど実効的な対策となる。そのためには、責任をとることができるヒトと、責任を取りたくないヒトとを、別のスキームで取り扱うようにすればよいのだ。全員が平等で対等だという、「戦後民主教育」の幻想から抜け出ることができず、全てを画一的に扱おうとするからおかしい。

流通などでは、正社員でも、転勤のある全国区採用の社員と、転勤のない現地採用の社員があって、待遇を変えている(ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターン)ところがある。普段は悪の権化の伏魔殿のように目の敵にしているが、役所の人事制度の特色のひとつである、キャリア、ノンキャリアの区別もそうだ。つまり「自立・自己責任」なヒトと「甘え・無責任」なヒトを、それぞれ別のクラスタとして捉え、その社会的な役割や位置付けを違えればいいのだ。

そのためには、階級制度を導入する必要がある。それは、社会的な役割に基づき行なうクラスタ分けこそが、「階級」となるからである。ここで重要なのは、階級は階層とは違う点だ。どうもマルクス主義以降、特に社会主義の政治的プロパガンダにおいては、あえてこの両者を混同する傾向が強い。多分、マルクスそのものにはそういう視点はないので、マルクスのメッセージのステレオタイプ的解釈の創始者であるエンゲルスの「発明」だと思うが、ここではこの点には深くは触れない。

階級とは、「資本家階級=富者・労働者階級=貧者」というように、貧富の違いを示すものではない。貧富の違いは「階層」である。階級は、クラスタに与えられた社会的役割の違いを示している。どちらが上・下という話ではない。今も階級社会が色濃く残る英国では、どの階級も自分の階級に誇りを持っていることが、それを示している。英国でも大衆芸能のターゲットは圧倒的に労働者階級なので、漫談やコントなどのお笑いでは、労働者階級が貴族階級を小バカにするネタが良く出てくることがそれを示している。

だから、階級闘争とは、この階級間の役割を変えようとすることに他ならず、貧しい者が富んだ者を襲って、富の再分配を求める行為ではない。たとえば「名誉革命」に代表されるような、新興ブルジョワジー対中世以来の貴族といった構図の争いも、その本質は階級闘争である。こういった市民革命の場合、旧来の貴族階級が持つ富の総量より、その既得権を打破しようとするブルジョワ階級の持つ富の総量の方が圧倒的に多いということもしばしば見られることである。

一言で言えば、日本人全体を「有責任階級」と「無責任階級」に分けてしまえばいいのだ。どちらに所属するかは、本人が自分で選ぶものとする。さらに、一旦所属階級を決めても、一定の条件を満たせば階級間で移行可能な制度を作っておく。階級というと、すぐ「差別だ」という人がいるが、それは本人が所属を選べないシステムの場合の話であり、あくまでも本人の自由意志が反映されるのであれば、そういう「批判」はお門違いである。

これでウマく行くのか、と疑問を持つ方がいるかもしれない。「有責任階級」とは、ノブリス・オブリジェを果たすことが出来る人である。あえて厳しい義務や責任を果たそうという心がけのヒトたち。イメージとしては「求道者」「出家者」に近い。有責任階級を選ぶということ自体、あえて見返りのない苦役を自らに課すことに近い。そういうヒトは、そもそも世の中にそんなにいないのだ。

日本人には、権利は大好きだけど、義務や責任が大嫌いという人が多いし、若者ほど無理して背伸びして格好をつけたりしない傾向が強い。間違いなく、無理せず正直に選ぶはずだ。だから、実際に選ばせれば「無責任階級」を選ぶひとが圧倒的に多い。最初は洞が岳を極め込む人達も多いだろうが、そっちがマジョリティーになることが見えてくれば、どんどん人が集まりだす。逆に、相当ストイックな人でないと、有責任階級を選ばないだろう。

言いかたを変えれば、これは「名を取るか」と「実を取るか」の違いである。名を取るのが「ノブリス・オブリジェ」だ。日本は、近世以降、近代を通して「実を取る」文化が主流である。しかし社会全体が「実を取る」価値観に染まっているというのは、極めて異質といわざるを得ない。それは、近世においては「儒教精神」をバックボーンに持つ武士階級がおり、「名を取る」価値観を持っていた。その原点に立ち戻れば、それはわかるはずだ。

「ノブリス・オブリジェ」を果たせる人は、世の中広しといえどもそんなにはいない。でも、それでいいのだ。これはもともとリーダーシップの話である。リーダーは、フォロワーより少数でなくてはおかしいからだ。責任を果たすというのは、そのくらい重く、誰にでもできることではない。神の前に、各個人が責任を果たすという、キリスト教的文化のバックグラウンドがない以上、それを日本人に求めるのは酷だ。明治以降、無理して近代的個人を目指してきたが、百年以上たっても無理なんだから、そろそろ考えを改めるべき時だろう。


(13/09/13)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる