essay 818

感じる力





「マーケティング上の課題」と呼ばれているものは、素直な目と素直な感受性で、市場なり生活者なりを見つめれば、そこから容易に答えが導き出せるものが多い。マーケティングとは、そんなに難しいことではない。極端に言えば、ユーザの気持ちになれるなら、それがソリューションなのである。逆に、そういう感じ方ができないヒトが多いからこそ、しちめんどくさい理論を構築する必要が生まれるのだ。

自分の目で見て、耳で聞いて、五感を活用して感じること。それは「世界を感じ取る力」と言い換えることもできるが、基本的に誰にでも備わっている能力である。もちろん、不幸にして目が不自由など障害があり、そうは言い切れない部分をお持ちの方もいらっしゃるコトは確かだ。しかしそういう場合も、その分聴覚が研ぎ澄まされ、自分ならではのカタチで世界を感じ取るコトができることも多い。

「感じる力」は基本的な人間力として、ほとんどの人には備わっているのだ。こういう「環境をセンシングする能力」は、程度を問わないのならあらゆる生き物がそれぞれのレベルで持っている。にもかかわらず、見たまま、感じたままを受け入れられず、理解できず、凡庸でつまらない捉え方しかできない人が、なんと多いことか。マーケティングが「理論」になり「学問」になってしまうということが、このジレンマを示している。

子供の作文やお絵かきなどの感想として、よく子供の豊かで素直な感受性をたたえる表現に出会う。素直にあるがままを感じ取ることは、子供にはできることをみんな知っている。この問題を解くカギは、ここに隠されている。子供の時にできたことが、大人になることで「能力的にできなくなる」ことはない。何かの理由で「しなくなる」だけなのだ。であるなら、その理由が明らかになれば、この問題は解決することになる。

まず第一の理由としては、自分が感じたコトをそのまま主張するには、かなりの主体性と責任感、そして勇気が必要であることが上げられる。「寄らば大樹の陰」で、それが仮想的なものであろうと共同体に依存している人が多い日本人の中では、それを持っている人は少ない。「出る杭は打たれる」ではないが、日本の大人社会は、ホンネを口に出しては言霊に触れてしまうというタプーがあるのだ。

次に、感じたことを表現するには、それなりの表現力が必要ということも大きい。表現力的才能がない人が、感じたことを語ろうとしても、結局凡庸になり、わざわざやる意味が感じられなくなる。言葉にしたり、その感動を他人に伝えたりするのは、至難の技である。SNSに食べた料理の写真と感想を記する人は多いが、その表現はほとんど陳腐で、どこが良かったのか、第三者には伝わってこないことがそれを示している。

大人と子供の違いとしては、感動をもたらすものの構造の違いがある。大人の世界では感動の構造が複雑になるため、自分自身何かを感じたとしても、何にどう感じたのかを理解するのが難しい。このため自分で感じたものがあったとしても、おいおい、誰かがそれについて表現したものを、なぞって理解するようになる。解説や評論が人気があるのはこのためだ。他人の言葉を借りて理解した時点で、それはもはや自分の感覚ではない。

さて、人間は易きに流れるコトも問題である。自分の五感で感じ取り、それを語ることは多大な負荷が伴う。そうである以上、安易を求める面倒がりが多い日本人においては、それをおっくうがる人が多くなるのは仕方がない。疲れること、面倒なことをわざわざするような人は「ものずき」なのである。アクティブに休日を過ごす人より、家でダラダラしていたり、ショッピングセンターでブラブラしてたりする人の方が余程多いではないか。

これら全てを通して言えることとして、自分の感じたことを語った瞬間に、少数派のクラスタに落ち込んでしまう危険性が極めて高いことも指摘できる。多数派は、まさに「サイレンスマジョリティー」。自分の意見を言わない人たちなのだ。偶然語った一言が、この多数派の気持ちを代弁することもなくはないが、それは稀である。多数派は、そもそも意見を持っていないからだ。

これらが高じると、教科書的なステレオタイプをリファレンスとして自分の中に持っておき、それに照らし合わせて現実を「整理」した上で理解するようになる。それは一見、現実を理解したような気にさせるが、そこで出てくる結論は、あくまでも前もって用意された「教科書」の内容の中にとどまった形式的なものでしかない。現実を現実として見ないですむからこそ、リスクをとらずにわかった気にさせてくれるのだ。

そうであるなら、一度知識や理論を全て捨て、白紙の状態で現実を見てみればいい。何かを見ることはできるだろうし、感じることもできるだろう。もちろん、そこで見たもの、感じたものを、すぐに表現したり説明したりすることは難しいかもしれない。しかし、現実は理論が示す世界よりも、ずっと複雑ではあるものの、興味深く魅力的なモノであることに気付くだろう。頭でっかちの世界から抜け出すきっかけとしては、それで充分である。まあ、これすらできないヒトはいるとは思うが、それはもはや「ナントカにつけるクスリはない」の世界だが。


(13/09/27)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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