essay 819

評論したがる人





評論したがる人、評論っぽく語りたがる人は、日本にはけっこう多い。BlogやSNSなどは、料理評、書評、映画評など、特にそのような「評論」が花盛りである。もちろん何を書き込むかは、「表現の自由」であり他人がとやかく言うことではないのだが、その内容は、なぜか上から目線の評論調になるヒトが多い。そのほうが、客観的で権威があると思っているフシさえ見られる。それは、全く逆だ。

自分が感じたことを自分の言葉で感想として書くのは、その内容がどうでも、ある意味、自分が感じたことに忠実な分、リアルである。人に何と言われようと、自分がそう感じたという事実は揺がない。つたなくても、自分の心に忠実に語れば、それで伝わることは伝わる。大事なのは体裁よりも中身なのだ。本来、BlogやSNSなどに書くことがふさわしいのは、こういう文章である。

そもそも、才能のある人はそう多くない。文才などないのが当たり前である。すばらしい文章で感動させようというほうが、所詮無理なのだ。天才のマネをしてもはじまらない。自分が自分らしくいるには、無理せず、背伸びせず、等身大の自分をありのままに見せることが大事である。もちろん、こういう「顔の見える」文章を書いて、多くの人から暖かい視線を集めているヒトたちも多い。

その一方で、自分の心とは別に、「さもありそうな評論」を書く人達がいる。また、積極的に長文を書き込んでいるようなヒトには、こういうタイプがけっこう多いのだ。往々にしてその中身は、誰かがどこかですでに語っている内容のデッドコピーだったりする。それなら、あんたがまた書くまでもない。でも、こういう人達は、それをオウム返しのように語りたがる。それは語ること自体が、彼らにとって必要な行為になっているからだ。

もしかすると、これは知識・権威偏重という、学校教育の悪い面が出ているのかもしれない。自分の気持ちや思いをそのままに語ることではなく、エスタブリッシュされた定説をきちんと押さえて調べた上で、それをなぞって語ることが「正解」とされる。それなら、インターネットからの論文のコピぺにバツはつけられないと思うのだが、プロセスまで含めて「正解」を決めるのが学校教育ということなのだろうが。

それで困るのは、このような学校教育が権威主義を育てることにある。なぞって語ることが正解とされることで、正解を出した者は、自分がその論者と同じポジションにいる気になれる。端から見ればマネをしているだけなのだが、自分はなにかスゴい権威に成り切っていると勘違いしてしまうのだ。所詮、それは自己満足でしかないのだが、学校時代に先生からマルをもらったことが、これを助長する。

特に、UGMなどでは、書き込んだというだけで、自分の権威が認められたのと勘違いするヒトも多い。パソコン通信の昔から、インタラクティブメディアでは、こういう勘違いをするヒトが多かった。まあ、最近の若者には無意味な上昇志向はないので、こういう行動をとるコトが多いのはバブルまでの右肩上がりの高度成長を知っている40代以上、特にその時期に社会人になっていた、アラフィフ以上の世代である。

自己満足としてはいいのかもしれないが、権威に依存することで、自分もなんだかエラくなった気がするというのは、どう考えても人間関係やその場のTPOを把握できていないことの証左である。まっとうな感受性のある人間には、恥ずかしくてとてもできないことである。そういう意味では、このような症状は、ある種の発達障害、コミュニケーション障害であるといってもいいだろう。

まあ、それと根っこは共通しているが、個人としてモノが語れず、肩書きでしか発言、行動できないというのがすでに、発達障害の一形態である。相手の気持ちを読みながら行動できないので、ヒエラルヒー上の命令でしか相手とインタラクションを持てない。そもそも日本の「男性社会」が、共同体型の甘え依存症と、コミュニケーション障害型の発達障害を持つ人が、相互に傷を舐め合うための組織なので、むべなるかなといえば、そうなのだが。


(13/10/04)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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