essay 820

受け身力





日本においては、適当に受け流すことを否定的に捉える向きが多い。しかし、相手にがっつり正面切って立ち向かい、真っ向からガチで受けるのは、結果的に間違いにつながるコトの方がが多い。実は、いかにウマく受け身を取って、ダメージを受けずに済ますかが重要である。そして、受け身とは、相手をガチで受け止めずに、うまく受け流すところに、その真髄があるのだ。

格闘技では、受け身が大事とよく言われる。まあ中には、どんなヤツがいかに正面切ってぶつかってきても、がっちり受け止め涼しい顔でいられるというサンドバッグのような怪人もいるかもしれないが、それは特異体質だ。一般的にいえば、モロに相手のワザを喰らったのでは、圧倒的にダメージを受けてしまう。だからこそ、相手のワザを受け止めつつ、その破壊力を逃がす受け身が大事なのである。

受け身がなくては、ガチンコのケンカになってしまうものも、受け身を取れるからこそ、スポーツの試合として成り立つ。受け身ができなければ、怪我をしたり、ヘタをすると死んでしまうかもしれない。まさに格闘技を格闘技たらしめているのは、受け身にあるということもできる。継続的なインタラクションを成立させるためには、送り手側からの働きかけに、受け手の側がウマく「受け身」を取れるかがカギとなる。

まさに、これは人生でも同じコトだ。コミュニケーションでもコラボレーションでも、人と人との間の関係性を成り立たせるのは、受け手の側の「受け身」にある。ガチンコで正面から受け止めようとしても受けきれないことが多い。かといって、躱して逃げてしまったのでは、関係性が成立しない。ある程度受け止めつつ、ダメージになる部分は受け流すことで、「受け身」をとることがカギとなるのだ。

30代以下の層においては、いろいろな意味で人間関係の問題が取りただされることが多い。この十数年、とみに問題にされるようになった、メンタルヘルス。旧型ウツ、新型ウツなどと分類されるが、いずれも人間関係での受け身の取り方ができていないコトに起因する。旧型ウツは、受け身を取らずに正面切って受け止めすぎてしまった結果だし、新型ウツは受け身がウマく取れないがゆえに、相手と向き合うことから逃避しようとした結果といえる。

これまた最近増えている、コミュニケーション障害のような発達障害もそうだ。受け身が取れないからこそ、「全部受け止めてしまう」か「全部無視する」か、どちらかしかできない二律背反になる。極端な話、人間関係作りがうまいヒトは、相手の話を全部聞き流してしまっても、それなりにうまい相槌を打ち、それなりに相手を納得させつつ、程々の落としどころに納めることができる。ある程度いろいろな経験を積めば、こういうことは自然と理解できると思うのだが。

こういう変化を、コミュニケーションメディアの多様化・高度化に結び付けたがる人がいる。確かに、かつてのパソコン通信以来、インターネットのUGMには、コミュニケーション障害丸出しの「困ったチャン」を見かける頻度は高い。しかし、それは結果であって原因ではない。実は、こういうコミュニケーション障害の人は、かつてもそれなりにおり、その出現頻度はあまり変化していないのではないかと思われる。

しかし、かつての時代においては、こういうコミュニケーションに問題を持つヒトのほうが受け身を早く習得し、サイレントマジョリティーのヴォリュームゾーンにまぎれることにより、直接社会の風にあたるのを避けてきたのだ。ある意味発信の敷居が下がった分、自分の立場もわきまえずにしゃしゃり出ようとすれば出れるようになり、社会の風当たりを強く受けるようになったと考えるべきであろう。

だからこそ、「正面からぶつかって、全身でダメージを受けてしまう」か、「相手と絡むこと自体を避け、逃げ回ってしまう」かという、究極の選択しか残されなくなる。これでは、インタラクティブな関係性がが成り立つワケがない。受け身ができなくては、関係性が築けない。こういう時代こそ、受け身力が問われている。もちろん、コミュニケーションスキルの高いヒトは、受け身力が高い。

最近では、聞き上手が大事という論調もよく聞かれるが、まさに聞き上手とは受け身力の高さである。コミュニケーション力というと、プレゼンテーション力のような発信力をイメージすることが多いが、重要なのは「適当」にコミュニケーションを成り立たせるカギとなる「受け身力」である。適当に聞き流しても、表面的には親身の相槌を返す。こういうトレーニングを子供のときから繰り返すことが大切なのだ。


(13/10/11)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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