essay 821

適応力





人間の適応力には、すばらしいものがある。だからこそ、熱帯から極地まで地球上のあらゆる地域で、そこの環境にオプティマイズした生活圏を構築し、世界の隅から隅まで人間の足跡を残してきた。もっともこの適応力は、統計的傾向値と同じように、集団としての人間を考えてはじめて見出せるものであり、一人一人の個々人についていうならば、必ずしもその限りではない。

というより、個々人の適応力は、育った環境で刷り込まれたものに依存してしまい、なかなかそこから脱することができないのが現実である。日本の中でも、温暖な地域で育った人と、酷寒の地域で育った人とでは大きな違いがある。関東系の人と、関西系の人では、食べ物の味付けの指向もずいぶん違う。一人一人の好みには、「慣れ」の影響が大きいのだ。その分、この問題を考える上では、自分の個人的な問題と、集団的傾向値の問題を峻別する必要がある。

昨今、そのようなトラップが潜んでいるのは、「認識力」「識別力」の問題である。仕事柄、長らくメディア情報環境の変化と生活者の受容性について見てきた。その30年余りの経験の結論として言えるのは、メディアの変化においては、ネットワークやインフラ環境といった、デジタル部分の変化が人間を変えるコトはないということである。映画がデジタル化して、クリエーターの制作環境や、興業ビジネスのあり方は大きく変わった。 だが、それが観客の嗜好を変えたわけではないのだ。

しかし、マン・マシン・インタフェースより人間側、アナログ部分でのLook & Feelの変化は、大きな変化をもたらす。とはいえ、これは昨今話題の4kとかのような、技術の発展や高度化といった、技術的な話ではない。ハイビジョンが、単体としては全く商売にならず、NHKがあれだけ旗を振っても、MUSE方式などアナログ・ハイビジョンは死屍類類であった。しかし、いわば放送デジタル化のおまけとなると、急速に高精細度が普及したという事実が、それを示している。

1990年代以降、急速に進展した社会の情報化・ネットワーク化がもたらしたモノは、皮肉なことに、感覚の「ローファイ化」である。高精細度の画像、高音質の音響は、マニアにこそ受け入れられるが、マスのヴォリュームゾーンは、低解像度、低音質の無料のコンテンツで充分楽しんで満足してしまうようになったのだ。これはケータイ以降に物心が付き育った人間は、粗い動画を小さな画面で見ても充分楽しめるように、刷り込まれてしまっているからだ。

ここでもやはり、刷り込み理論がまた登場することになる。育った時代の環境により刷り込まれた、世代的な価値観・意識の違いである。インスタント麺がなかった時代に育った人々は、インスタント麺が登場したとき、それをレギュラー麺の代用品と認識し、一段格落ちするB級品として見てしまう。そして、その評価基準は、いかにインスタント麺が普及したとしても、基本的に変化することはない。

しかし、生まれたときからインスタント麺があった世代は、そんな見方はしない。インスタント麺がデファクト・スタンダードで、銘店のラーメンは高付加価値商品と考えるか、全く別ジャンルの食い物と思うか、どちらかであろう。要は、インスタント麺がすでに存在し、それに一定のステータスが付加されている以上、それを格下の存在として認識する要因がないのである。この違いを、理屈でもいいから理解するコトが肝要なのだ。

さてコンテンツンの「ローファイ化」が既成事実化すると、コンテンツの楽しみ方にも、いろいろな変化がもたらされる。そういう粗い小画面でも楽しめるコンテンツが、好んで選ばれるようになった。動画共有サイトで人気の「おバカムービー」が代表的であろう。それだけでなく、喜怒哀楽も、ショートムービーで受け取れてしまうレベルのものがわかりやすく、好まれるようになった。こうなると映画やドラマなども、こういうフッテージの積み重ねで作られたものが好まれるようになる。

音楽もそうである。iPhoneなど、スマホのスピーカーで聞ければ充分だし、それで楽しめる「無料」のコンテンツでないと、ヴォリュームゾーンには聴いてもらえない。もちろん、ディープでマニアックな世界もきちんとあるし、それもちゃんとビジネスとして廻っているのが音楽の面白いところだが、それではマスにはならないのだ。これを否定的に捉える向きもあるが、それは価値観の押し付けである。要は、リテラシーの違いなのだ。

ある年代以上の人、具体的には60代後半以上の人は、家に電話がないのが普通な状態の中で育った。この人たちにとっては、今でも電話とは緊急な連絡や用事の時かけるものなのである。それ以降の世代が、恋人同士愛を確かめたり、暇なときにダベったりする、パーソナル・コミュニケーションのツールとして電話をかけるのと、大きく違う。この「刷り込み理論」は、かつてここでも「振り込め詐欺」が成り立つ理由として分析した。

人間は、環境に慣れ、それを使いこなすコトで進歩する。お金を払って映画を見なくなり、無料のショートムービーがウケるのなら、それをエンタテインメントとして活用すりにはどうしたらいいかを考えればいいだけのことだ。その変化を認識せず、旧来のスキームに拘泥していては、チャンスをみすみす潰すことになる。いいこと、悪いことではなく、時代の変化として受け入れることが大事なのだ。そして、それができるものだけが、変化をチャンスに変えることができる。


(13/10/18)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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