essay 822

神の思し召し





東日本大震災の津波による福島第一原発の事故以来、放射能に関して語られることが多くなった、しかしこの放射能の問題を理解するためには、そのベースに統計や確率論の素養が必要になる。これは、自然科学の問題である以上、構造的に不可避である。だが今までに何度も述べてきたように、日本人の多くは、この「統計・確率論の素養」を決定的に欠いている。これがまた、この議論を決定的に歪めている。

核実験のいわゆる「死の灰」のような放射性降下物や、今回のような放射性物質が大気中・海水中に放出されたことの影響は、あくまでも確率・統計的問題としてしか捉えることができない。それはとりもなおさず、ある程度大きな母数を持つ集団全体としてみた影響しか、科学的合理性をもって算出することができないコトを意味する。この違いがわからない人が余りに多いのだ。

これは、血液型占いと同じだ。A型の特定個人が、同じような一定の性格を持つことはありえない。私と、誕生日の年月日も血液型も同じという知人がいるが、全く性格は似ても似つかないものである。しかし、ある程度の数を持った集団で見た場合、A型の多い集団と、B型の多い集団を比べて、その性格や意識に統計的に有意な違いがあることは充分に有り得る。

実際、歴史的な経緯に基づき、民族により血液型分布は大きく異なる。民族間では、生活習慣を含めて意識や価値観に違いがある以上、たとえば多民族国家の中の集団では、そのクラスタ全体での性格や意識と、血液型の分布とが、強い相関を示すことも有り得る。日本でも、縄文系と弥生系では、縄文はBが多く弥生はAが多いという、明らかな分布の違いが知られている。

そういう意味で言えば、放射能の特定個人に対する影響は、複雑すぎて合理的に算出できないが、統計的に意味のある大きさの集団全体に対しては、その違いは充分科学的に説明できるのだ。「シュレディンガーの猫」ではないが、一人の特定個人が「1%死んで99%生きている」状態というのは(量子力学オタクでない限り)想像することは難しい。しかし、1000人の集団なら、そのうち10人ぐらいはその影響で死ぬ可能性があるコトは容易に理解できる。

この考えかたは、喫煙の影響とか、アスベストの影響などでも同様である。喫煙者でも肺癌にならない人はいるし、受動喫煙もなかった非喫煙者でも肺癌になる人はいる。ただ、その発病確率が有意に違うというだけである。タバコを吸ったから、必ず肺癌になるわけではない。もっとも、喫煙やアスベストの発癌性リスクの方が、放射能の発癌性リスクより桁外れに高いというのも事実なのだが。

およそ長期的な影響を持つリスクに関しては、どれも同様に統計的な見方が不可欠である。ここで問題を複雑にしているのは、短期的な影響がすぐに出る、強い放射線を直接浴びることと話が混同されがちな点である。強い放射線を浴びる話も本質的には確率論なのだが、致死量の閾値がはっきりしているので、そこを越えれば死亡確率100%でサチってしまう。

そういう意味では、東海村の臨界事故ではないが、臨界状態になった放射性物質が放射線を出しまくっている状態、あるいは丸出しの核燃料に直接触れるような状態に関しては、その危険度はわかりやすい。だが、その直撃さえ回避できれば、影響は長期的な確率論の世界に入ってしまう。ここでアタマの切り替えができなくてはいけないのだが、どうやらこれが至って難しいらしい。

私事で済まないのだが、父方の祖母は広島出身である。そのため、そっち方面の親戚には、直接原爆の被害にあった方も多い。しかしそういう方もその影響で亡くなることなく、幸いなことに皆さん天寿を全うしている。中には、父の従姉妹で、爆心地から至近距離で被爆しているが、鉄筋建てビルの地下室にいたので直撃を受けずに済み、結果的にはけっこう長生きされた方もいる(その息子は横浜高校で甲子園に出場している)。

世の中には、原爆投下後に救援のため焦土に入り、結果的に放射能の影響で癌になったり、亡くなったりした人もおられる。直撃さえ避けられれば、放射能の影響というのはこういう形で現れる。言葉を変えれば「運」なのだ。統計的な影響というのは、こういうものである。統計的な結果を「神の思し召し」と呼ぶこともあるが、特定個人への影響を考えると、まさにそうとしか言いようがない。

世の中「理系離れ」とかいわれているが、理系とは技術系・工学系のコトではない。こういう「統計的視点」を持っているヒト、「確率論的発想」ができるヒトこそ、理系的なヒトなのだ。理系というとモノ作りというのは、歪んだ技術オタクの考えかただ。欧州では工学は理学より一段低い「実学」とみなされている。もしかすると、明治以来本当の意味での「理系的な発想」を大事にしてこなかったツケが、ここで廻っているのかもしれない。


(13/10/25)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる