essay 825

いい嘘、悪い嘘





このところ、またぞろ「偽装」の問題が巷を騒がせている。料理の材料に関するものが多いが、一連の騒ぎは、食べた客の側が告発したものではなく、提供している店や、その店が入っている百貨店やショッピングセンターの調査により発覚したものばかりである。ということは、偽装していたことは確かだが、その嘘はバレていないのだ。実は、ここには大きな問題が潜んでいる。

かつて老人をダマして無価値の証券を売りつけた、「豊田商事事件」という詐欺事件があった。最後に主犯格の男が、取材陣のど真ん中で刺殺されて大いに話題となった事件だ。その事件のときにも、リアルタイムで論評した覚えがあるが、豊田商事が悪いのは、儲からないモノを「必ず儲かる」と称して売りつけた点であり、老人をダマした点ではない。倫理的にはさておき、詐欺はダマされるほうが悪いのだ。

もし老人に欲がなかったら、そんなウサンくさい儲け話に乗るワケがない。老人の側にもスケベ心があるから、そこを狙われてダマされるのだ。一発当てたくて、違法地下営業の秘密カジノでバカラやルーレットをやったはいいが、その時警察の手入れにあって自分も捕まってしまうのと同じだ。違法風俗店でも良くある話だが。そういう意味では、ダマされた老人の側の責任というのも大きい。

これが「必ず儲かる」ではなく、「運がよければ儲かる」であれば、何ら問題はない。バレる嘘をつくのは罪だが、バレない嘘なら問題ない。バレない嘘を、人は夢と呼ぶ。では、バレない嘘とはどういうものか。それには二つのタイプがある。一つは、嘘をつく側とつかれる側が共犯関係にあり、嘘が決してバレないという「お約束事」ができている場合。もう一つは、ついた嘘が、つかれた側からは絶対に理解・把握できない場合である。

前者の典型的な例は、ディズニーリゾートに代表されるテーマパークである。テーマパークといえば、まさに「夢」を売るもの。料金と引き換えに、「夢」を体験するサービスである。とはいえ、この「夢」はフィクションである。つまり嘘だ。テーマパークに酔いしれるお客さんは、いわばハダカの王様なのだ。しかし、だからといって文句を言う人はいない。楽しくて面白ければ、フィクションでも何ら問題はないのだ。このフィクション性は、いわば「許された嘘」である。

この種のフィクション性は、エンタテインメントの世界の本質でもある。ゲームのようなバーチャルな世界は、直接的にフィクションの要素が強いが、映画でもイベントでも、多かれ少なかれフィクション性を持っているから面白いのだ。そういう意味では、テレビ番組等のコンテンツも同じである。テレビ番組の「ヤラセ」を問題視する人がいるが、こういう構造を持っている以上、ヤラセでも面白ければ許されるのである。つまらないガチより、面白いヤラセの方が、エンタテインメントとしては優れているのだ。

八百長問題も同じ文脈で考えられる。野球賭博の結果を操作するための八百長は許されないが、ゲームをショーアップできるなら、八百長も何ら問題ない。地味でつまらないガチンコの試合など、犬も喰わない。それよりは、八百長でも面白い試合のほうが、よほど見ていて楽しい。楽しさのためにお金を出す以上、その目的がより達成されるのであれば、なんら咎められるコトではない。そういう歪んだ精神主義をかざすから、日本の選手は国際試合で勝てないのだ。

これに対し、後者はもうちょっと難しくなる。相手から見えている部分が完璧に整合性があり、何ら問題がない一方、嘘をついている部分が、相手からは認識も理解もできない状態を作り出すわけである。推理小説の「完全犯罪のトリック」ではないが、ある種「地頭の知恵比べ」になるからだ。ある種、見事にバレずにカンニングをやり遂げる、というのがそれに近いだろう。姑息なワザではすぐばれるが、教師が思いもよらないし、理解もできないワザを発明してしまえば、バレるコトはない。

そういう意味では、真面目で論理的な相手は、この手の嘘でダマしやすい。ある前提からロジカルに考え、演繹的に物事を理解してゆく秀才タイプは、それより一枚上手な相手からは、コロッとダマされやすい。官僚の嘘がすぐバレてしまうのはそのせいである。これからの時代、こつこつ勉強していい点を取るタイプより、スゴいカンニングのワザを発明して満点を取るタイプの方が求められる人材である。

そのシステムを作った人間より、自分の方が優れているなら、そのシステムの穴は見つけられるし、穴を見つけられた人間は、その穴を使って何をやってもいい。この発想は、ハッカー精神の基本である。これも、発想は共通している。しかし、ついてもいいのは「相手にバレない嘘」である。その穴を使って、機密データを覗き見したり、たわいのないいたずらをしたりするのは良いが、金を自分宛に送金させ、相手に気付かせてしまうのはアウトである。

ここが大事なところだ。地頭がいい人間は、地頭が悪い人間に対して、バレない限り何をしてもいいのだが、それは相手にバレないように周到にやるから許されるのだ。これを守っている限り、相手にとってはなんら問題はないし、迷惑もかからない。ただただ、いつもと同じ日常が流れているだけだ。いわば、2次元の世界に生きている生き物は、2次元の世界が貫徹している限り、3次元の3つ目の軸の値には関心を持つことすらできないようなものである。

つまることろ、悪いのは相手に迷惑をかけることであって、嘘をつくこと自体ではない。嘘が問題になるのは、その結果が、相手の財産を奪ったり、相手を傷つけたりしたときである。そう考えてゆけば、悪いのは「バレる嘘」であり、「バレない嘘」はなんら咎めるべきものではない。だが、気をつけていただきたい。世の中には、あなたより地頭のいい人間はいくらでもいるし、いつそいつが嘘を見破るかもしれないのだ。このリスクをヘッジして初めて、「バレない嘘」が成り立つことを忘れないでいただきたい。


(13/11/15)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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