essay 828

背負っている人





20世紀後半の日本が失ってしまったものの一つに、能力や資産などを背負っている人といない人の違いを大事にする心がある。お金が代表的だが、ストックというものは、フローとは根本的に違う性質を持つ。背負っている人は、その違いをよくわきまえている。しかし、秀才とか成り上った人には、その違いはわからない。結果として、目の前の潤沢さに眼がくらみ、ストックとすべき部分まで、フローとして消費してしまう。

その典型的なものが「成金」だろう。人間は弱いモノなので、貧しい育ちをした人が、大金を目の前にすると、舞い上がってしまう。そういう金の流れが、自律的に次々と金を生み出すのが、バブルである。そういう意味では、バブルは人間の歴史と共にあったし、これからも続くだろう。「濡れ手に粟」ならぬ「濡れ手に泡」である。ストックを知らずに育った人に、大金を渡してはいけないのだ。

ご先祖様から受け継いできた「資産」を持っている人は、B/SとP/Lの違いやそれぞれの意味を、身を持って知っている。運用している資産と、そこから上ってくる日銭とは、同じ「お金」ではあっても、全く性質が違う。会社経営をしている人なら、この違いはよくわかっているだろう。もっとも、会社経営の場合は、B/SとP/Lとキャッシュフローという三つの要素になるわけだが。

しかし、昔の商店街の八百屋さんなどでは、店の運営資金も、日々の売り上げも、自分の生活費も、全部一緒ごたにしてつるしたザルの中に現金で入れていたりした。まあ、最近は個人商店でも法人化しているので、ここまでアバウトな管理はないのだろうが、給与生活者の家計や個人の財布となると、ほとんどこのレベルの「管理」から抜け出ていないのが実情だろう。

本当は、日々の昼飯代と、冷蔵庫や洗濯機など耐久消費財の購入費用、家のローンの返済とは、それぞれ会計上費目を違え、それぞれが適正かどうかを判断できる管理をしなくてはならない。日々の昼飯代は純然たるコストで、キャッシュフローの変化と出ゼニとが一致しているが、耐久消費財はキャッシュフローとしては一時に出てゆくが、耐用年数分減価償却によりP/Lに反映する必要がある。

さらに、ローンの返済は文字通り借入金の返済なので、すでにP/Lの項目ではなく、別勘定である。実は、資産を持っている人は、頭の中でこういう「仕分け」ができているし、常にそういう発想でお金の動きをみている。だから、キャッシュフローが潤沢だからといって、それを使い切ることはないし、資産を取り崩してキャッシュフローに組み込むようなこともしない。

概してこういう「資産家」は贅沢をしない。贅沢をしないのは、巷間いわれるように、「目立ちたくないから」ではない。自分の代で資産を減らしては、それを残してくれたご先祖様に会わせる顔がないからなのだ。受け継いだ資産を増やしてこそ、ご先祖様への孝行になる。かくして、資産がある人であればあるほど、無駄な贅沢をせず、その資産を未来へと粛々と受け継いでゆくのだ。

この感覚は、資産の重みを知る人しかわからない。自分が使えるのは、フローの範囲で、なおかつ、いわば利子のごとく、元利合計で資産に組戻すべき部分を除いた金額だ。もちろん資産が巨大なら、その金額自体が、一般の給与生活者の年収より多くなることはあるだろう。しかし、それは結果としての分相応であり、限度をわきまえた上での行動である。自分が金を稼ぐことが目的ではないのだ。

お金のハナシがわかりやすいので、それに終始したが、持つものと持たざるものの育ちの違いは、お金に限らない。才能もそうである。人間には、どんなに努力しても埋めることのできない差異があるのだ。偏差値秀才は認めようとしないが、これが人類における歴史のオキテである。高度成長期には、努力すれば何とかなる「気分になれた」というだけのこと。本質は変わっていないし、これからの時代は、またこの原点への回帰が求められているのだ。


(13/12/06)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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