悪いのは誰か





秘密保護法案をめぐる議論が、相変わらず盛んである。しかしここでもすでに論じたように、この国では「法律」そのものはさほど問題にならない。法律自体を曖昧に作っておき、なるべく法律そのものの是非に関する議論になることを避けるとともに、解釈と運用でいかようにも「柔軟」に対応してしまうからである。そういう意味では、これまた前に述べたことだが、問題は法律ではなく、それを施行する行政機関・官僚機構の側にある。

最初から、法律は「絵に描いた餅」なのだから、法律自体が問題ということはありえない。悪いのは、それを恣意的に運用する連中、すなわち官僚である。「言論の自由」や「知る権利」を妨げるものがあるとするなら、それは法律ではなく、それを運用する官僚の側の問題である。そういう問題を心配するなら、法律に反対するのではなく、「官僚主導の大きな政府」を問題にし、ここで徹底した行政改革を行なうことを主張すべきである。

国民の生活や経済活動に対し、「官」が許認可権や指導で介入するというのは、貧しい発展途上国ならいざしらず、先進国においては「利権・バラ撒き」構造の温存以外の何者でもない。現代の日本ぐらいの経済力やプレゼンスを持つ国であれば、「民のことは民に」任せればいい。大きな政府にすることで、必要ない官僚を大量に雇うから、次々と新たな利権構造を生み出すし、それを知られまいとして、臭いものにはフタとばかりに「秘密」を作りまくるのだ。

そもそも今の時代、市場原理・競争原理が働いている環境であれば、ディスクローズは必須であり、秘密は作れない。怪しい影をチラッとでも見せれば、たちまち顧客は離れてしまい、厳しい競争環境にあるマーケットでは、即、レッドカードとなってしまうからだ。民営化し、市場原理が働くようにさえしておけば、声高に「権利」を叫ばずとも、「言論の自由」は達成される。いや、もっとストレートにいえば、言論の自由とは、言論マーケットで、市場原理が機能していることに他ならない。

市場原理とは、「機会の平等」があり、それを前提として「結果」は市場のお客さんが決めることである。言論の自由とはまさに、どんな主義主張にも平等な機会が与えられることである。それが多くの人々から支持されるかどうかは、やってみなくてはわからないし、それは送り手ではなく受け手が決めるべき事柄である。電波系やトンデモ系、はたまたカルト系の主張も、その当人が信じたり語ったりするのは自由である。しかし、受け入れるかどうかは、受け手が決めることだ。

ここで、「小さな政府」が実現した状況を考えてみよう。「小さな政府」は、究極的に外交と国防しかやらない。他のコトは、全て民営化してしまう。外交と国防には、秘密は付き物である。というより、外交と国防というのは、トランプでも麻雀でも良いが、国家間である種のゲームを繰り広げているようなものである。手札が相手に全部見えてしまっては、そもそもゲームは成り立たない。配牌だけで勝負は決まってしまう。

確かに日本は下手なのだが、国際政治の駆引では、ポーカーフェイスとブラフがカギになる。いわゆる「ブタ」の手札でも、相手が降りてしまったら、「勝ち」である。ここに持ち込めれば、「下克上」も可能になる。この二つのワザが活きるのは、自分の「手」が秘密になっていて、相手から見えないからである。だからこそ、外交と国防には、秘密が必要なのだ。余談だが、北朝鮮の瀬戸際外交は、これが非常にウマい。時として米国等の大国も手玉に取るその手腕は、まさに「敵ながら天晴」と言わざるを得ない。

そう考えてゆくと、小さい政府が実現しているならば、その範囲内では「秘密」もまた必要ということができる。マトモな外交、マトモな国防ができる人材が存在するかという議論はあるのだが、原則としてはこういうことである。つまり、秘密保護法案の問題は、「秘密保護法案」と40年体制にもとづく「大きな政府」との組合せが最悪というところにある。そして、「大きい政府」は、これに限らず日本社会のあらゆるところで、矛盾と破綻を引き起こしている。

打倒すべきは、「大きい政府」であり、それを必要とし、それを自ら作り出している「官僚制」およびそこに巣食う「官僚達」である。失われた20年も、日本が住みにくくなったもの、競争力が失われたのも、全て官僚システムが悪いのだ。もちろんその裏には、バラ撒き行政の既得権に安住する、守旧派の国民もいる。医師会や農協などのような守旧派の利権団体もいる。ヤツらこそが悪なのだ。本当に自由で明るい社会を望むなら、闘う相手が違っている。今からでも遅くはない。打ち壊すべきは、40年体制の大きな政府だ。


(13/12/13)

(c)2013 FUJII Yoshihiko


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