技術大国(?)





日本の組織の特徴として、「戦術はあれども戦略なし」という点があげられる。少なくとも戦国時代においては、そういうコトはなかったので、この気風は江戸時代以降に確立した組織文化であるということができる。これは責任を取ることだけが仕事の武士階級と、基本的に責任を問われることがない町人階級が並立する中で、経済力により町人階級が社会の主体となった中から生まれてきた体制である。

この「戦術主義」は、明治以降の近代においても組織構造の基本となった。官僚機構も、軍隊も、そして企業も、みな「戦術はあれども戦略なし」という組織であった。しかし、「戦術主義」が結果オーライになった時代もある。戦術主義の経営と、戦術主義の技術が、ニワトリとタマゴのように互いに原因となり結果となり、20世紀後半の日本の高度成長のうねりを作り出してきたコトは間違いない。

戦術しか考えられない人は、部分最適しかできない。しかし、場合によっては部分最適の集大成が、結果的に全体最適になってしまう場合もある。高度成長期の日本の製造業など、その典型ということができる。日本の製造業は、そもそも明治以降、欧米の先進国に 追い付き追い越せというのが至上の命題であった。欧米先進国に「負けない」製品を作ることが、一流の証であった。

太平洋戦争の敗戦(これも、戦術主義のもたらした弊害である)による経済の荒廃を乗り越え、戦前のGDP水準を取り戻した昭和30年代以降(これが、「戦後の経済低迷期を脱し、戦前の水準を回復した」という、昭和31年経済白書の「もはや戦後ではない」の真の意味である)、「追いつき追い越せ」経営の絶頂期となったのが、高度成長期である。ある意味、戦後の社会体制が「40年体制」として戦時中の延長であると同様、高度成長は、明治以降の経済政策の最高到達点といえる。

一言で言えば、明治以降、高度成長期までの日本企業は、「モノ真似」でやってきたのである。コピー品を作るには、全体を知る必要はなく、個別技術にたけていればよかった。コピーでいく限り、「なぜ、そこがそうなっているのか」を理解する必要はない。そっくりその通りのもの、あるいは、ブラックボックスとして同等のものを、より安く、より速く作れればそれでよかった。

その弊害は、技術の分野で如実に現れた。実は、技術大国日本が誇ってきた技術とは、そういう戦術レベルの技術に過ぎなかった。サイズが半分、価格も半分、それでいて機能は二倍。商品戦略はそれだけ。これは、比較の対象となるリファレンスがあってはじめて成り立つ戦略である。あくまでも、二番手以降の戦略でしかない。このやり方では、オリジネーターとして、ユニークな商品を開発することは不可能である。

その構図がわかっていたなら、その強みを率先して強化し、自ら最初に最強のEMS企業となる戦略も充分あっただろう。シャープや三洋などは、ポテンシャルは充分だし、1980年代に自社のブランドを捨てる経営的決断力さえあれば、台湾の鴻海などより先に世界的なEMS企業としての存在感を発揮できただろう。

が、自社のブランド力、開発力が、世界に通用するという「勘違い」は、戦術しかない経営であったがゆえに、トップも含め全社的に蔓延し、そのチャンスを生かすことができなかった。知名度が高いことと、ブランド価値が高いことは根本的に異なる。知名度は戦術だけでも稼げるが、価値は戦略性によって生み出される。人気ブランドにはなれても、高級ブランドになれなかった事実を理解することはできなかった。

全体最適のためには、戦略的視点が不可欠である。十年ほど前に「選択と集中」というコトバが流行ったが、全体最適を実現するには、現状を否定し、いかに過去の歴史や経緯があっても、今となってはいらないものを、バッサリと切り捨てることが要になる。この発想は、個々の戦術レベルからは永遠に出てこない。全く位相の異なる着眼点や問題意識が求められるのだ。

吸収合併や経営統合をしても、その結果生まれてくる無駄な部分を切り捨てなくては、効率は上らない。バラバラに同じような機能を抱えているからコスト増になるのだから、それを集約化してはじめて、コスト削減に繋がる。当たり前のことなのだが、日本企業ではこれができない。全体最適を実現する戦略的発想ができないからだ。自分達には戦略的な発想はできないのだということを、しっかり受け止め認めなくてはいけない。

しばしば、「日本企業は高度成長期の成功体験に囚われすぎている」という指摘がある。半分は当っているが、半分は言葉が足りない。そもそも高度成長自体が戦略的ではなく、結果オーライの創発的に達成されたものである。囚われているのではなく、成功を自ら勝ち取る戦略がないままここまできてしまった、というのが正しいだろう。不充分なのではなく、ないのである。この事実を認めるコトができなくては前へは勧めない。しかし、これを認めるのにも、戦略的リーダーシップが必要になるのだが。


(14/01/10)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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