倫理と思想





このところ、皆が皆必要以上に権威に頼ろうとするがあまり、その権威自体の価値低下が目立って感じられるようになった。デフレが続いたせいでもないのだろうが、昔はもっと威厳があったはずの権威が、いかにも安っぽくなってきている。TVドラマの「水戸黄門」でも、いかに威勢がいいからといって、最初から最後まで黄門様ご一行が印籠を出しまくったのでは、全然権威が発揮されないようなものである。

そういう中でも、一番安売りされているのが「倫理」ではないだろうか。元来倫理とは、主義主張や思想信条のように、多種多様な価値観が並存できるものではない。倫理とは、ホモサピエンスであればジェネリックに共有される価値観でなくてはならない。それは同時代で共有されるだけでなく、時代を超えても共有されうるものであろう。いわば、それを奉じることが、人間である証となるようなものである。

これに対して、「宗教によって倫理観は異なるではないか」と主張する向きもあるだろう。確かに、一夫一婦制を固く強要する宗教がある一方で、一夫多妻制を認める宗教もある。また、無垢な動物を殺生するのを戒める宗教がある一方で、異神に祀ろう異教徒に関しては、それを殺害することを奨励する宗教もある。そして、それぞれの宗教は、そのバックボーンとして独自の倫理観を保持しているようにも見える。

しかし、もう一歩視野を大きく取ると、違った構図が見えてくる。こういう異なる「倫理観」を持つ宗教も、グローバルというレベルから見ると、それなりに共存し共栄している。異教徒、異文化が共存するためには、異なる価値観を持つ人々が、隣人として存在することを認める心の余裕が必要であると同時に、互いを傷つけずウマく棲み別けるためのノウハウが必要である。

地域的な「部分」においては紛争が絶えないことも否定できないが、より大きいレベルで見るならば、それなりに共存するエコシステムがあり、それが機能していることもまた、歴史が示している。だからこそみな生き残ってきているのだ。それはとりもなおさず、実は思想信条に属すべき「広義の倫理」とは別に、「狭義の倫理」ともいえるようなモノが存在していることを意味する。

そのカギは、「心の広さ」に求められる。これこそが、人間である以上誰もが共有できるし、しなくてはいけない価値観である。いわば人倫を畜生と分けるための、最低限の基準である。人間は人間がわかるのだ。最低限、そういう機能がビルトインされている。それがあるからこそ、かつて異種文化が接したときにも、共存し交易を図ることができたし、世界を知らなかった民族からも、グローバルに活躍できる人材が生まれた。

宗教や民族文化により、リファレンスとなるベクトルが異なる「広義の倫理」は、普遍性がない以上、人類の不偏価値という意味での倫理ではない。どうも、日本人には、この違いを理解することが苦手なようだ。それは、「広義の倫理」が、いわば個別の宗教や民族に関しての戦術論であるのに対して、「教義の倫理」は、そもそも人類とはどうあるべきなのかという戦略論であるからだ。

とにかく、日本人は戦略が苦手なのだ。それはそれとしても、多様性を前提とし、相互の違いを尊重し合うことこそ、深い人類文化を実現する道である。仕儀主張や思想信条は違っていいのだ。思想を持てる大前提は、思想信条の自由にある。違って当然だし、その違いを大事にすることが、人類の幸福につながる。その心の余裕をもたらすものこそ、倫理であり、人の道なのだ。これがわかっていない人には、安っぽく倫理とか言って貰いたくない。


(14/01/17)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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