ベタな民意





時ならず、選挙シーズンとなってしまった。都内では、都知事選挙用のポスター掲示板の準備も整い、公示を待つのみという状況。しかしこの十数年、選挙のたびに話題になるのは、選挙が民意を反映しているのか、という問題である。しかし、これは問題の立て方自体がおかしい。「関心がない」「どうでもいい」というのも、立派な意見であり、選択肢なのだ。棄権が悪いのではなく、棄権という意思表示を取ったと見るべきである。

実際、議員の皆さんも、立場上反対はできないものの、とうてい賛成するわけには行かないという決議については、議場を離れて棄権するではないか。それは、意見の主張ではないというのか。けっきょくこういう議論は、「棄権に回った票がもし自分についてくれたなら、勝てたかもしれない」という、負け犬の皮算用でしかない。選挙に「もし」はない。有権者から選ばれなかったのは、理由があるのだ。

そういう意味では、「選挙で、直接誰に投票するか」ということではなく、全体として皆が面白く、好ましく思っている方向にしか、世の中は進まない。今の日本社会は、極めて「民主的」に民意が反映されている社会ということができる。押し付けがましくつまらないテレビ番組には、視聴者が誰一人つかないように、民意が反映されていない施策には、誰も寄り付かない。ここで「選ばれる」ことで、民主主義が担保されているのである。

インターネットが普及してから、皆で「炎上」を楽しむ気風が広がった。炎上するのは、みんながそう思っていることだからである。誰もブラック企業だと思っていない企業を攻撃しても、炎上のエの字も出てこない。その一方で誰もが怪しいと思っている企業なら、ちょっと突いただけで大炎上になる。ここでもまた、「皆がそう思っている」という、「民主主義のフィルター」が機能している。

このところ、電車の車内での飲食や携帯の利用など、ルール違反については、必要以上とも思えるモラルの追求がよく見られる。これ自体、決していい傾向とは思わないが、ここでも「民主的なコンセンサス」が働いているコトは間違いない。それは、「抜け駆けして、一人だけいい思いをさせまい」という、共同体的な主張である。多数派は誰しも、出る杭を打ちたいのだ。いずれも、民意のマジョリティーがそこにある。

炎上や、必要以上のモラリスト化については、フラット&オープンなメディアが普及したことにより、このような傾向を引き起こされたと主張する向きも多い。しかしこのような傾向は、決してメディアの進歩そのものが原因ではない。もちろん、インタラクティブメディアの発達が、そういう傾向を加速させたことは事実であり、相関はあるものの、そこに因果関係があるわけではない。

マジョリティーの人々がこういう意識を持つようになったのは、日本社会が高度成長を経て豊かな安定成長社会となり、安定した生活を送れるようになったことから、人々が無理に背伸びをせず、今の自分に自信を感じるようになったことが、その主たる原因である。余裕を持ち、現状肯定型で自信を持っているからこそ、今の自分が感じていることが一番正しいんだ、と声に出して語れるようになったのだ。

かっての団塊世代などでは、強烈な上昇志向と求心力が特徴であった。しかし、それは貧しい時代に育った世代ならではの特長とも言える。今や30代以下の世代では、都会指向・上昇指向を持つ層は、すっかり少数派となった。せいぜい2〜3割がいいところだろう。もっとも都会で調べれば、相対的にもうちょっと多く感じるのは、致し方ないところだ。残りの7〜8割は、現状満足派である。今の自分に満足し、まったりと生きてゆくことを希望する層である。

このマジョリティーとなった層は、上から目線では、絶対に動かせない。上から目線の代表である新聞が、人々からそっぽを向かれ、発行部数が半減している事実が、それを示している。基本的には下から目線、せいぜい横から目線で語り掛けないと、この層はそもそも耳を傾けてさえくれないのだ。こと「民意」を持ち出してくる人に限って、ここのところが全く分っていない。未だに、上から目線で人がついてくると思っているのだ。

民意を無視しては、なにも動かない。民意に媚びなくては、なにも実現できない。それが今の日本である。よくリーダー不在といわれるが、その原因は人材不足ではない。そういうリーダーシップを、人々が求めていない点にある。今の時代、上から目線では、リーダー足り得ない。ある意味、「toC」サービスのように、お客さんの気持ちがわかっていて、痒いところに手をまわせるのが、望まれるリーダーなのだ。

官僚の利権構造も、これに呼応して変化した。マジョリティーが求めるバラマキ、マジョリティーが喜ぶバラマキでなくては、なりたたない。バラマキの対象はそこに合わせつつ、天下りのポジションだけはしっかり確保するというのが、80年代以降の利権構造である。官僚は庶民から成り上った偏差値エリートなだけに、マジョリティーの庶民の欲するところを、意外と良く心得ているともいえるだろう。

これらは、事実である。現実は現実であって、善悪を問うものでもないし、批評の体操でもない。議論するのは自由だが、そこからは何も生まれない。いつも言っているように、現実を現実としてとらえ、それをベースに次の手を考えるのがマーケティングの発想だ。この現実を受け入れられないヒトは、その時点ですでにミニからは乖離している。とはいえ、この辺の勘が良い政治家はちゃんといるし、そういうヒトはバッチリ票を集めてますなあ。


(14/01/24)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる