偽装





少し前に、ホテル等のレストランのメニューにおける、材料の「偽装」が問題になった。曰く、「芝エビ」と書いてあったが、実は「バナメイエビ」だったとか、「和牛」と書いてあったが、「輸入牛肉」使っていたとか。しかし実際には、食っても違いがわからない人ばかりだった。その証拠に、事件そのものも内部告発で明るみに出たのであって、お客さんが文句を言って問題になったのではないではないか。

ほとんど素材だけの勝負となる、刺身のようなジャンルのある和食はさておき、フレンチなどでは、大したことのない材料でも、お客さんの舌をうならせるような料理を作れるのが、名シェフとされる。料理は、材料のみに金を払っているのではない。肉屋、魚屋とは違う。できあがった料理の味や、店の雰囲気、サービスに対して支出しているし、そちらの付加価値の方が全然大きい。定食屋でも、原価率は30%台でなくては、経営が成り立たないのが食い物やである。

この場合も、芝エビだろうがバナメイエビだろうが、少なくともお客さんはそのメニューの味と店のサービスに対して、それなりに納得・満足して料金を払っているワケだ。確かに嘘をついてはいるが、それによる被害者がいたわけではない。原価の安いバナメイエビを使うことで不当に利益を得ていたのかどうかも、高級料理店の付加価値率の高さを考えれば怪しいところだ。どこぞの冷凍食品に農薬が混入され、被害者が起きたという事件とは本質的に違う。

さて、耳の聞こえない作曲家の作品に、別の真の作曲者がいたのどうのという事件が起きた。世間的には、真の作者が別にいるのに、自分が作ったと称していることを問題にしているようだ。しかし、誰が作ったかなんてのは、実はさしたる問題ではない。日本人は誤解しているが、著作権の本質は財産権にある。「誰が作ったか」というのは人格権に属するが、こんなものは著作権のありかを示す記号に過ぎない。

そもそも著作権自体、契約次第で、人格権も含めて売り渡すことは可能である。丸ごと権利を売り渡すなんてことは、私だって仕事ではいくらでもやっている。ごくごく日常的なできごとである。そちらのほうがビジネスとしてウマく廻るんであれば、人格権なんてどうでもいい場合も多い。私が書いた文章や曲が他人の名前で世に出ても、そういう契約でそれに見会う実入りがあれば、なんら問題ない。

だがこの事件には、重要な問題が隠されている。ここが議論からぬけ落ちていることのほうが、よほど重大だ。それは、ここで問題になっている作品群が、音楽として大した曲ではない点である。確かに悪い曲はないが、オリジナリティーあふれるメロディーではないし、壮絶なオーケストレーションでもない。そこそこまとまってはいるけれど、それとて映画やTVドラマの音楽でも、ワリとよくあるレベルである。

それが、売れてしまったところに、この問題の本質がある。CDを買ったり、コンサートを聞きにいったりした人は、音楽が好きで、ちゃんとわかっている人々ではないのだ。ここに集まったお客さんは、音楽そのものでなく、音楽周辺の、お涙頂戴的ストーリーに載っかって、その物語を消費していただけなのだ。その「感動」に対して、お金を払っていたのだ。だから、曲そのものは、そこそこキレイにまとまっていれば、それでいい。

この消費自体が、いわば虚構なのである。といっても、これは決して悪い意味ではない。夢を買う、涙の感動を買う。それは物語消費として、現代社会においては極めて高い付加価値を持っているし、財布の紐も緩みやすい。ハリウッド映画やテーマパークを考えればすぐわかるが、物語消費はフィクションでいいのだ。消費者は、感動しないノンフィクションには誰も金を出さないが、感動するフィクションには皆喜んで金を出す。

そういう意味では、ここには被害者はいない。大したことがない「音楽そのもの」に、人々が金を出したのでないことは明らかだからだ。フィクションであっても、その物語にそれなりに感激して金を出したのだ。それなら、費用対効果はバランスしている。自分達が騙されていたと、今になって叫ぶのは、自分には音楽を聞く耳がないと自白しているに過ぎない。詐欺は騙された方が悪い。もう一度、この言葉の意味を噛み締めてみるべきだ。


(14/02/07)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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