議論を避ける人達





日本においては、重要だといわれる問題ほど、キチンとした検討・分析を行い、それに基づいた議論を尽くすということが行なわれにくい傾向がある。原発問題にしろ、核武装問題にしろ、改憲問題にしろ、その是非をきっちり論理的に議論することはない。この手の「議論」はいつも、、精神論や原理主義的な倫理観だけをベースにした、いわば好き嫌いレベルの言い争いを越えることはない。

これは、いたって不思議な現象である。議論する気がないか、議論する能力がないか、どちらかとしか思えない。あらゆる可能性を検討し、社会的コストという視点から、市場原理に基づき、ネガティブコストも含めてそのコストを比較すれば、理性的な判断になる。そこには精神論が入り込む余地はない。そして、その結論は、荒唐無稽なトンデモ本のような精神論を唱えているヒトたちにとって、必ずしも受け入れられないものではない。

日本一のおバカタレントである、どこぞの政党の、三大メガバンクの一つのような名前をした女性党首なら、本当に議論する能力がないので、ヒステリックにトンデモ話を叫ぶしかないというのはよくわかるが、もうちょっとマトモそうで、有識者でございという顔をしたヒトも、対応は大同小異だったりする。ここで、いくつかの問題について、コストという視点から論理的に考えるとどうなるかを見てゆこう。

まずは、原発問題である。今までの原子力村によるコスト計算は、意図的に廃炉費用や使用済み燃料のコストを無視して計算していた。百歩譲って、電力会社としてのコストという意味では、「処理は国に任せる」という対応も可能性としてはないわけではない。だがこの費用を算入しないのは、社会的コストとの算出しては片手落ちである。誰が負担するかに関わらず、かかりうる全コストを計算しなくては意味がない。

そこまでのコストを算入して計算すれば、原発は決して安くないことは容易にわかる。CO2の問題はさておき、少なくとも、30〜50年ベースのコスト計算では、価格上昇のリスクを考慮しても、化石燃料の方が圧倒的に安い。化石燃料のコストというのは、100年前から「30年で石油資源は尽きる」といわれ続けてきたように、意外と上方弾力性が強い。コストが上れば、今まで間尺にあわなかった油田も、採算がとれるようになるからだ。

こうなると、逆に原発推進の方が、コストを無視した政治的・イデオロギー的主張であることが容易にわかる。いわゆる原子力村の人達の主張は、今までの原子力開発に関わる利権を手放したくないところに、そのモチベーションがある。事実そうなんだから、そう主張すればいいと思うのだが。一方、反原発であればこそ、精神論ではなく、キチンとロジカルにコスト計算をすべきなのだ。なんでこんな簡単なことがわからないのだろうか。

日本が核武装すべきかどうか、という議論もそうである。これについては、すでに何度かここでも取り上げた。シンプルな旧式の原爆を数発作ること自体は、今の日本の技術力なら、そんなに大変なことではない。かかるコストもそれほど大きくない。ぼくでも仕組みはわかっているのだから、ある程度大きい原子力系の大学の研究室なら、材料や機材もあるし、容易に作ることができるだろう。

しかし、保有した場合の負のコストがあまりにも大きい。こんなことは、シミュレーション計算すればすぐわかる。だからこそ、核兵器を持つと損をするのだ。そういう意味では、国際社会で失うモノのない貧乏国が、核を持ちたがるというのはよくわかる。どうせ使えないブラフ用兵器である以上、実際に作って並べるのも、いざとなったら作れるぞと手の内を見せておくのも、抑止力としてはさほど変わらない。

だからこそ、本当に反核を主張したいのなら、持つべきか持たないべきかという、冷静な比較検討に持ち込むべきなのだ。もったらどういうメリットがあり、どういうデメリットがあるかという議論をすることが、実は反核への一番の近道であるにもかかわらず、それをしようとしない。それどころか、これまた精神論・倫理論で、議論そのものを封印してしまう。議論さえすれば、結論はNo Nucsに決まっているのにも関わらず、だ。

ということは、改憲問題も同じである。この場合、まやかしの護憲は意味をなさない。解釈で、世界のベスト10に入ってしまうような軍隊を持ててしまうあいまいな憲法を改正することを前提に、絶対非武装中立を厳密に規定し、いかなる武力も交戦力も持たない状態で平和を維持するのにかかるコストと、平和維持、秩序維持のための最低限の軍隊を保持して平和を維持するためにかかるコストを比較することになる。

そうすれば、非武装中立がいかに荒唐無稽で非現実的な選択かすぐにわかる。リスクが高すぎるのだ。治安の悪い街中では、自分の身は自分で守らなくてはならない。多少コストをかけても、有事に失うものを考えれば全然お安い話である。まあ、この場合は、こういう「憲法を改正しても、軍事力を一切持てないようにしよう」という「積極的な平和主義」を主張する人は日本におらず、ワケのわからない「護憲」という能天気な人が相手なので、そもそも議論にすらならないのが現実だが。

しかし、社民党はもちろん、最近は日本共産党も護憲だそうだ。日本国憲法を護るということは、社民党も共産党も、天皇制支持ということになる。天皇制反対なら、憲法を改正しなくてはいけない。なんとも不思議な世の中になったもんだ。まあ共産党は、昔から、野坂天皇とか、宮本天皇とか、不破天皇とか、天皇が多い体質だったんで、実は天皇大好きといわれても、なるほどと、妙に納得してしまうのだが。

ディベートとか、少しでもできる人なら、こういう議論は、コスト面からフィージビリティーを考えれば、一発で結論が出ることぐらい、すぐにわかる。相手の主張と自分の主張を比べて、コスト面で比較すれば、現時点で取るべき方策は一目瞭然だ。それを、あえて避けて通るのは、単にアホなのか、それともそこになにがしかの深慮遠望があるのか。少なくとも、かつての革新派や良識派は、間違いなくアホなだけなんだろうとは思うが。


(14/02/21)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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