失言





政界・財界を問わず、昔から有力者には失言がツキモノである。最近では、インターネット等に書き込む機会が増えた関係もあり、失言問題があると、大衆レベルでも皆が皆、鬼の首でも採ったような顔をして叩きまくる傾向が強い。まあ、公人というのは一挙一動がネタにされる運命にあるので、ある意味仕方ないところもあるが、みんなで叩けば恐くないとばかりに、ストレス解消の道具にされていることも否定できない。

しかし、よく考えると失言には二種類ある。一つは「妄言」である。本人が勘違いしていたり、間違えて覚えてたりする場合もあるし、本人の理解力が不充分で、トンでも解釈になってしまっている場合もある。いずれにしろ、このタイプの場合は当人のどこかに問題があることは間違いない。この場合、言い訳すればするほどイジメられるので、自らその失敗をネタにして、笑いを取るぐらいの意気込みがほしい。ある意味、おバカタレントと同じである。

もう一つの失言は、「日本社会のオキテ」としてそこでは「タテマエ」をいわなくてはいけないTPOで、うっかり「ホンネ」を出してしまった場合である。まあ、英語にも「politically correct」という概念があるぐらいだから、今やこれは別に日本の専売特許ではないのかもしれない。とにかく「ホンネ」を言ったら、失言として叩かれるのだ。これでは「物言えば唇寒し」で、公式の場ではタテマエしか言えなくなる。ホンネをいえるのは、毒舌芸人か、極右と呼ばれる政治家かどちらかだけになってしまう。

「ポリティカリー・コレクト」でないので、言ってはいけないという「事実」はいくらでもある。欧米で典型的なのは、「ワイマール憲法が、ナチスを産み出した」という事実である。ワイマール共和国のドイツ国民の意思が、民主的な総意として、ナチスを政権の座につけた。ナチスは、決して武力でクーデターを起したのではない。ただ、この事実は「言ってはいけない」ことになっているようだ。タテマエでは、悪いのはナチスであって、ドイツ国民に責任はないことになっている。

歴史的事実を封印して無視し、ヒトラー個人に全責任を押し付け、当時のドイツ国民は犠牲者だという顔をしている。これは結局、ドイツ国民が「責任を負いたくない」ためには、壮大な虚構が必要になっているからに他ならない。何のことはない。ドイツ人も、結局は「甘え・無責任」なのだ。そういう意味では、無責任ということでは同罪だが、自分の責任を感じている分、わたしはやってない、と叫びたがる日本人の方がまだかわいいではないか。

さて、帝国主義の時代においては、強い国には、弱い国を侵略する権利があった。その人類史的な倫理判断はさておき、当時の歴史的コンセンサスという意味では、否定しようがない。侵略なくして大英帝国の繁栄がなかったことは、大英博物館に行き、その収蔵物を見学すればすぐわかる。侵略し、かっぱらってきたことが、「栄光の歴史」なのである。同じコトは、フランスのルーブルについても言える。要は「かつては強かったぞ」ということを誇っているのに他ならない。

だからこそ、これもいつも言っていることだが、「日本は強かったからアジアを侵略した、それがなぜ悪い」と開き直ればいいのだ。変に卑屈になって、「やってない」とか「侵略じゃない」とか、後ろ向きの発言をするからおかしくなる。堂々と「かつての大日本帝国は強かった」と誇るべきである。日本人は、欧米人に比べて、こういうところが、妙にシャイである。遠慮してもメリットのない相手には、なんら遠慮する必要などない。

戦争中の虐殺だって同様だ。戦争なら、強い者には、弱い者を殺す権利がある。理由など、勝者になれば、いくらでも後付けできる。昔の戦いの勇者は、何人殺したかを自慢しあったものだ。逆に、大虐殺をやったということは、昔の日本は強かったという勲章である。声高に威張っていいことなのだ。慰安婦問題も同じ。軍隊に慰安婦はつきものだし、強ければ強制連行して当たり前。強かった証だ。やってなくても、やったといったほうが、強そうでカッコいいではないか。

問題は、最終的に連合軍、特にアメリカに負けたことだ。敗者になった瞬間に、全ての行動が否定され、悪になってしまう。これを引きずっているだけなのだ。実は当時、誰もアメリカと全面戦争はしたくなかった。軍人は、総力戦では米国に負けるに決まっていることをよくわかっていた。やりたかったのは、部分戦で有利なポジションを取り、対等の日米交渉に持ち込むことでしかない。それが、ずるずると泥沼に入っていたのは、官僚の無責任さのせいである。

ここでは何度も分析しているが、無責任の権化である日本の官僚組織は、始めることはできても、終わらせられない。これは、今の日本企業に至っても、全く変わっていない。撤退の時期を逸して、死屍類類である。神聖にして侵すべからざるはずの天皇が、その大権の基盤になっている憲法に違反しても、政治判断をしなくては戦争を終わらせられなかった。この事実が、戦争の真の責任が、軍部を含む官僚組織の無責任さにあることを如実に語っている。

ここでコトの真相が明らかになる。胸を張って過去の事実を語れない理由は、40年体制として戦時下から継続する官僚システムが、実は戦争に対して最大の責任があるにもかかわらず、それを隠蔽し無責任でいられるために、「タテマエ」を作り上げてしまったところにある。そう、ホンネの失言はいいことなのだ。それは、官僚制の敵でこそあれ、マトモな社会を求める人々からすると、強い味方なのだ。炎上は面白いが、ホントの敵はどこにいるのか、よく見てからアオりましょうね。


(14/02/28)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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