他人への関心





「三丁目の夕日」など、昭和レトロとして映画や小説でも人気の高度成長期。若い人などからすると、まだ共同体的な絆が残っていて、人情あふれる時代というイメージを持つことも多いだろう。確かに、助け合いの精神はあったし、助け合わなくては生きていけないくらい貧しかったことも事実である。しかし、決して皆が皆他人に優しい「善人」だったわけではない。これが通用したのは、あくまでも「情けは人のためならず」という範囲である。

結局ベースが貧しい社会だったので、生きてゆく上で余裕がないのはどうしようもない。自分が生きてゆくのに精一杯だったのだ。その分、相手とどっちが下かを競い合うような「目くそ鼻くそ」の差別はあったが、他人にお節介をやく余裕も暇もないというのが現実であった。結果的に、根っこの部分では他人には非干渉ということになる。誰も面倒を見てくれない。その分、自己責任でやるしかない社会だった。

そういう時代では、当然ルールを守る意識も薄かった。いちいちルールを守っていたのでは、とても生きて行けないからだ。戦後の混乱期、配給食料だけ食べて、飢え死にした判事がいたそうだ。そんな中でもみんな生きていたということは、ハナからルールなど無視して、ヤミの食料をGETし喰っていたことに他ならない。基本的に貧しい社会とはそういうものである。無秩序なのが秩序なのだ。

だから貧しい社会では、相手が死んでも、競争相手が一人減ったぐらいの感想しかない。そういう社会では、所詮他人とはそのぐらいの存在である。自分だけが生き残ればいい、というバイタリティーがなくては生きていられないし、そうやって初めて生きてゆける。わざわざ市場原理などといわなくても、おのずから競争原理が全てを支配してしまっている。

これが、ハングリー精神だ。他人より先に食い物にありつき、それを喰ってしまわないことには、生きてゆけない。善悪とか好き嫌いとかいっていられない。その分、ルールや秩序に縛られていては出てこようのない、ものスゴいエネルギーがあふれ出してくることになる。このような状態では、他人のことを考えられるワケがない。他人とは、それを躱し、乗り越えてゆく、障害物競走のハードルのようなものでしかないからだ。

ところが人間余裕ができてくると、余計なところが気になりだす。自分の生活の面倒を見るのに精一杯でなくなると、なぜか他人のコトが気になり出す。最初は、自分が「他人並み」かどうかという、「横並び」を過剰に意識するようになる。自分が、その他大勢の中から外されないようにしようと躍起になる。このレベルであれば、まあ、自分の問題なので、そう周りに迷惑がかかることはない。

しかし、もっと安定的で豊かな社会になり、自分の席が無くなってしまう心配から開放され、心の余裕ができると、こんどは矛先が他人の方に向かう。いらぬお節介で、他人に干渉しても横並びを守ろうとする。焦らなくても喰っていける世の中では、一人出し抜こうとするヤツを叩くようになる。他人の行動に対し、露骨に出る杭を打とうとするようになったのは、日本では豊かな安定成長社会となった80年代以降である。

実は、貧しい頃は、それほど必死に出る杭を打ったりしない。そんな余裕など、誰も持っていないからだ。そんな時間と手間があれば、自分が喰っていくための努力に使わざるを得ない。こんな状態では、とても横並びを意識することなどできない。横並びになりたくても、なれないのが貧しい社会である。そして、日本の社会は長い間、そういう余裕がない貧しい社会だった。

炎上だってそうだ。暇を持て余しているから、絡みたくもなるし、みんなが絡むからこそ炎上する。世の中全体が食うや食わずなら、とても他人の揚げ足を取るような余裕などない。ヒマ人が多いということは、アクセク働かなくても喰うには困らないから、取るに足らない暇潰しに熱狂できるのだ。そういう意味では、ネトウヨだ、ブラック企業だ、って言えるのも、それだけ暇がある証しである。

もっというと、食うに困っているヒトなら、条件などいとわないで、どんなブラック企業であっても喜んで働くだろう。高度成長期の企業など、今の基準でいえば、どこもかしこも「ブラック企業」だった。住み込みで働いている人など、それこそ「24時間労働」である。貧しい人は、それでも喜んで働くのだ。思い起こせば、日本人が「3K」などといってキツい仕事を忌避し出したのも、80年代からではないか。

戦後の混乱期を逞しく生き抜いた、上野の浮浪児のバイタリティーを見よ。ほんとに貧しければ、生きてゆくためには、犯罪だっていとわないものだ。こういう他人への干渉が問題になるとは、ほんとに贅沢な悩みである。日本社会は優雅なものだ。しかし、ほんとは他人にお節介を焼くより、もっと自分のためにやるべきことが、まだまだあるのではないのだろうか。自分が努力するのがイヤだから、自分から目をそらすために、他人に干渉しているのではないか。ぜひ自問していただきたい。


(14/03/14)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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