「秀才と悪平等に死を」





「中の上」と「上の下」はどこが違うのか。長年「一億層中流」幻想に囚われていた日本社会では、たとえば所得のような一つの軸でしか社会構造を捉えない傾向が強かったので、この差はほとんど意識されなかった。日本にも、歴史的に階級構造があったが、所得で言えば「中の上」のほうが「上の下」よりも羽振りはいいであろう。しかし、そこには乗り越えられない質的な違いがある。まさに、0と1ほどの差があるのだ。

20世紀を通して、こういう「評価軸の単純化」は、人間を評価するあらゆる面で進行していった。人間の能力という面でも、それは顕著に見られる。その典型が偏差値のような、試験の点数による人間の評価である。こういうシステムを取ると、当然「テストで確実に点を取る」秀才が高く評価されることになる。秀才は、ある意味努力次第でなれる、しかし天才は、努力だけではどうにもならない。この質的違いを無視する傾向が強かった。

特に、「40年体制」下における日本社会は、悪平等社会を目指していただけに、なれるひとしかなれない天才よりも、努力次第で可能性がある秀才を重要視したことが、この傾向を増長した。さらに、貧しい国が高度成長するテイクオフ期には、テクノクラートが大量に必要になるため、「秀才」の大量動員が必要になるという、高度成長期特有の事情もこれを後押しした。その結果、20世紀後半の日本社会は、秀才を優遇する、希代の偏差値社会となってしまった。

それは、エリート官僚的なものだけではなく、社会のあらゆる局面に浸透した。モノ作りの分野でも、芸術の分野でも、「先進国に追いつき追い越せ」が課題だっただけに、職人を大事にし、クリエイターを育てなかった。努力して、追いつくべき目標をそっくりにマネできる技術を身につければ、一流の職人になれた。その分、高いオリジナリティーを持った天才は、必ずしも優遇されなかった。スポーツでも、才能より、練習さえ積み重ねれば勝てるという、妙な精神論が跋扈した。

こういう「努力論」「精神論」は、長期的視野に欠ける、典型的な部分最適戦略ということができる。「追いつき追い越せ」と言いながら、「追いつく」ことに最適化するがあまり、「追い越し」てからどうするのかという戦略的視点が、全く欠けている。ある意味、これこそが秀才の弱さである。勉強したことしか理解できないし、答えが出せない。そして、その情報を勉強できるということは、それは、すでに誰かがトライし、結論を出したものであるということを意味する。

「追いつく」という目的自体がお座なりなものなだけに、一度それが達成されると、すぐに手段が目的化されやすい。 高度成長が実現し、豊かな社会になった80年代以降、かつては貧しい国の限られたリソースを効率的に配分する(と自称していた)システムだった官僚機構が腐敗し、単に自らの既得権益を守り拡大する自己目的的な組織となったのはその典型である。まさに官僚自身が秀才の権化なだけに、彼らが主導して実現した40年体制は秀才と努力の時代であった。

今や官僚は腐敗と守旧の代名詞となり、もはやそのスキームからは何も生まれない。これを打破するには、秀才を評価しない社会にすることが、一番の近道である。これからは努力や勉強ではどうにもならない、生まれ持った才能や育った環境が大きく影響し、差をつける時代なのだ。これはまた、秀才重視と表裏一体の関係にある「悪平等意識」を打破することに繋がる。臨教審で香山健一先生が提唱したスローガン「画一性に死を」を借りれば、「秀才と悪平等に死を」である。

元来、人間社会はそういう構造だった。秀才重視でも、悪平等重視でもない。天賦の才能は、神とか超越した存在が、人類に与えてくれた恵みとしてうけとめられていた。そういう能力をもった人材を、素直に敬い、自然に重用する気風がみなぎっていた。本来人間社会とは、そういうモノなのである。実はダイバーシティーのような多様性を日本社会が受け入れないのは、悪平等意識が蔓延しすぎ、互いの違いを認め合うことができないからである。

そういう意味では、「クールジャパン」に見て取れる、官僚の大いなる勘違いは参考になる。コミックスやアニメーションなどサブカルの世界は、表現者の世界だ。かつてコミケがひらがな「おたく」主導だった時代、自分が作品を発表する人以外はお呼びでない場だったことを思い起こしてほしい。表現者とは、秀才ではなく天才の世界である。だからこそ、その作品は世界で評価されている。官僚のような秀才には立ち入れないし、立ち入って欲しくない。立ち入ったとたんに、そのクリエイティビティーは失われてしまう。

これからの時代、日本が先進国としてグローバルな評価を受けるためには、新興国とは違う、次の目標となる価値軸を提示する必要がある。高度成長の次に来る価値、豊かな社会を構築してからの目標。こういったものを、先進事例をして示すことができ、成長の次に描くべきビジョンを見せられなくては、世界の中に居場所はない。それが、この努力ではどうにもならない人間能力の壁である。「秀才と悪平等に死を」宣言できることが、日本が成熟した社会を実現した証となるのだ。


(14/03/21)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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