「上から目線」な人々





社会主義、共産主義が時代遅れになってしまった理由のひとつに、極端な「上から目線」のエリート意識がついてまわっていることが挙げられるだろう。この「上から目線」、鼻持ちならないエリート意識という意味では、アカデミズムとの親和性が高く、かつての知識人が左翼がかっていた理由も納得できる。要は、党エリートが常に大衆を下に見て、「啓蒙」してあげようという姿勢が基本であった。

大衆が求めているものに耳を傾けないという意味では、マーケティングを知らないし、マーケティングの対極にある。もっとも、市場経済を否定していたのだから、これは当然かもしれない。市場を否定してしまっては、人々のニーズを汲み取ることはできない。マーケット・インではなく、プロダクト・アウトでしか対応ができない。これでは、貧しく飢えた人しか、引き付けられない。

まさに「インターナショナル」の「起て飢えたる者よ」ではないが、こういう貧困層をターゲットとする限り、上から目線であっても、入れ食いの釣り堀で餌を撒くようなものである。まだまだ飢えている人が多かった、産業革命直後の19世紀ヨーロッパ。富の遍在が顕著な、貧しい発展途上の新興国。こういう社会では、平等への夢で人々を動機付けることは、決して間違ってはいない。

まさに、そういう産業革命直後のヨーロッパで生まれたことを考えれば、人類の未来への夢を語る、マルクスの哲学者としてのビジョンは決して悪くない。彼が言っているのは、「人類が豊かになれば、平等な理想郷が実現する」ということでしかない。この高い理念を、低次元の政治的アジテーションの道具にしてにしまったのは誰か。それは、マルクスの草稿をもとに、「資本論」をまとめたエンゲルスである。彼は政治家であり、哲学者やビジョナリストではない。

彼が、マルクスの哲学を政治的なプロパガンダにしてしまったその瞬間から、この理論体系においては進歩が止ってしまった。社会主義・共産主義は、19世紀的な社会構造に極度に依存した論理構成・方法論に固執する、アナクロな政治論理になってしまった。それが一応20世紀後半まで命脈を保ったというのは、単に、19世紀ヨーロッパレベルの経済発展段階の国や社会が、その時点まで地球上に残っていたということに過ぎない。

常に党のエリートだけが正しく、それが蒙昧な大衆を指導する。国民のほとんどが教育を受けていない文盲の農奴だった、20世紀初頭のロシアや、20世紀半ばの中国なら、それもある意味ではあたっていたかもしれない。確かに社会主義革命が成功し、共産党政権が樹立された国々は、全てそういうレベルの地域である。しかし、経済・文化が発展し、大衆社会が実現した状況では、全くもって見当外れであり、これでは意欲のある人間は、誰もついてこない。

そういう「貧しく無知な大衆を、上から目線で革命に導く」という発想だからこそ、旧ソ連のような、官僚貴族を産み出すことになる。「ブ・ナロード(大衆の中へ)」という標語がロシア革命の時にあったが、これ自体、自分達が大衆とは違うエリートであることを表明しているではないか。革命の主役は大衆ではなく、自分達、党エリートである。彼らの唱えるように、人民主権であるならば、これは全く矛盾している。

それが、彼らの中で整合性を持っているというのは、彼ら自身が極めて大時代的な「上から目線」の発想に囚われているからにほかならない。そして、この上から目線は、日本の高級官僚に共通する。要は、人品卑しい人間が、権力について成り上がろうとするから、おかしくなるのだ。そして社会主義は、エンゲルスがマルクスの哲学を貶めて以来、こういう人達と極めて親和性が高い。そういえば、「40年体制」を築いた「革新官僚」達は、当時のソ連の官僚制や計画経済に憧れを持っていた。

まさに、大きな政府を求める「上から目線」の人達は、共通のルーツを持っている。そしてそれは、市場原理や小さな政府と根本的に対立し、相容れない。問題は、実は政治思想やイデオロギーではない。規制と利権の大きな政府を目指すのか、市場原理に基づく小さな政府を目指すのか。この対立こそ、人類の最終決戦である。利権バラ撒きの大きさ政府が大好きな、官僚や社会主義者を撲滅してこそ、人類の未来は拓ける。これを成しえない限り、20世紀的なるものを脱した、真の21世紀はやってこない。


(14/04/04)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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