「改革派官僚」の矛盾





世の中には「改革派官僚」と呼ばれる人達がいる。高級官僚でありながら、今の官僚達の意識や行動を批判している人々だ。官僚をやめたあと、コメンテーターとして、マスコミによく登場している人も多い。彼らの論調には一つの共通した特徴がある。現在の主流派となっている官僚達には「アンチ」だが、官僚制自体は決して否定しないのだ。それどころか、その意見をじっくり分析すると、極めて強力な官僚制の信奉者であることがわかる。

彼らの基本的な論旨は、次のようなものである。現在の霞ヶ関の問題点は、守旧派官僚が牛耳っているところにあり、制度自体の問題ではない。従って、自分達のような改革派官僚が官僚組織を運営するようになれば、問題は解決し、ウマく行く、という考えかたである。しかし、これでは官僚お得意の「派閥争い」と変わることがない。「守旧派」という派閥と、「改革派」という派閥の争いであり、いわば「井の中の蛙」でしかない。

今問われているのは、官僚組織自体の非合理性である。官僚制度そのものをぶっ壊して改革しない限り、この国は21世紀の世界についてゆくことはできないからこそ、既得権やバラ撒き、ハコモノ行政、天下り等を含めて、問題視されているのだ。これでは改革できるワケがない。こういう官僚の発想の硬直性が問題になっているのに、全く自覚がない。「改革派官僚」という言葉自体が、「善良な悪人」と同じで矛盾を孕んでいる。

確かに自己否定は難しい。それは民間でも同じである。しかし企業においては、ゴーイング・コンサーンが求められる以上、今までのやり方では通用しなくなり、事業が続けられない状況になれば、好むと好まざるとに関わらず、今までの自分のやり方を否定せざるを得ない。前例主義で官僚的な、さしもの日本の製造業も、赤字が続き倒産の危機が迫れば、自己改革をせざるを得ない。社内の人間が嫌がっても、外部のステークホルダーがそれを求めるからだ。

こういう自浄作用が働くのは、企業が自由競争のマーケットを前提として活動し、そこに市場原理が働いているからだ。しかし官僚制度や官庁組織には、こういうイエローカードを切ってくれる審判に相当する、市場原理の働くマーケットが存在しない。一般的に、権力の座とはそういうものである。官僚機構も、自らが国家としての権力を握っている以上、そうならざるを得ない。だからこそ、リーダーたるものは、自ら自分を律することが求められるのだ。

このコーナーでも、リーダーシップとノブリス・オブリジェの関係については、何度も論じてきた。そこでも毎回触れてきたように、リーダーとなり、自立・自己責任を果たすためには、人格、風格が必要である。しかし、偏差値だけで成り上がった秀才である官僚達には、そレにしおう人格、風格は備わっていない。司馬史観ではないが、武士道精神を会得した人達が官僚となっていた明治初期はいざ知らず、現代では、そういう人格、風格を持った人は、官僚になろうとも思わないだろう。

そういう明治初期の日本のリーダーがそうであったように、生まれも育ちも違う階級社会のエリート、つまり上流階級は、偉ぶらないし、極めて謙虚である。現代日本では、こういう姿を取れるひとたちが少なくなってしまったが、絶滅したわけではない。災害の被災地を訪問するときの皇族の姿勢などが、その典型だろう。格好をつける必要がないし、威張るのははしたないこととされてきた。そういう奥ゆかしさこそ、上流の証しである。

要は官僚の問題とは、人品卑しい人間が、勉強の点数だけで成り上がろうとするから、おかしくなるところが構造的矛盾の原点である。上流の人は、フローではなくストックに拠り所がある。フローの水準を維持するためには変革はリスクだが、ストックをキープし増やすためには変革はチャンスである。だから上流の人は、実は現状否定をいとわないのだ。よく考えてみれば、既得権にしがみつくのは、持たざる人の証である。全ての問題は、実はここに潜んでいる。


(14/04/11)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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