「ネット右翼」マーケティング





この数年、「ネット右翼」なる表現を目にすることが多い。インターネット上で、威勢のいい論調がウケている傾向を捉えて、こういう言い方がされることが多いようだ。さらに「ネット右翼」なるものの台頭を引き合いに出し、世の中の保守化・右傾化を主張する人達がいる。しかし、真の保守、真の国粋主義、浪漫主義に立つものに言わせれば、決して真正の右翼と呼べるものではない。連中は、要はナショナリストのファンなのである。

ファンの意識というのは、非常に漠然としたものである。その典型は、エンタテインメントにおけるファンの存在だろう。かつて東映ヤクザ映画全盛の頃、ヤクザ映画ファンは、若い男性を中心に非常に多かった。広く一般的な、社会的ブームだったといってよいだろう。当時はイデオロギー全盛の時代でもあったが、不良にあこがれるちょっとヤンチャな少年から、筋金入りの学生運動の活動家まで、思想信条を問わず人気があった。

それは、当時の流行語でいえば、ヤクザ映画の主人公のヤクザは、異常に「カッコ良かった」からである。彼らは、ヤクザ映画を見ると、アドレナリンが分泌されてハイになり、主人公に自己投影してオーバラップさせる。映画のストーリの盛り上がりとともに、その自己陶酔も絶頂になる。そして映画が終わって場内の明かりが点くと、日常の自分に戻るのではなく、健さんや文太さんになりきって、肩で風を切りながら出てくるという次第。

しかしここが大事なのだが、彼らは決してヤクザではないし、ヤクザになろうとしているわけではなかった。もっというと、ヤクザにあこがれていたワケでもない。もちろん、ヤクザ映画ファンの中から本当のヤクザになってしまったヒトも皆無ではないと思うが、所詮は少数派である。ファンの大部分は、その後律儀にカタギの生活を送っている。一般的に、ファンとはそういう存在なのである。

人気スターは数多くのファン持つが、ファンの多数は、自分が人気スターそのものになりたいと思ってはいない。これは、普遍的な構造である。実は、ネット右翼も同じ構造を持っているのだ。右翼はなんだかコワモテで強くてカッコいい。だから、あこがれる。ネット右翼のモチベーションの基本はここにある。いわば、右翼のファンである。しかしそうであるだけに、自分が筋金入りの右翼になろうと思っているわけではないし、そういう予備軍ではない。

彼らの意識や行動を理解するためには、ここのところが肝要だ。ファンでしかないので、国のために殉じる気など毛頭もない。世のためを信じて、一人一殺のテロを実行する気もない。テロリストになる気がないということは、国士ではないということだ。ファンがついてくれれば、本物の国士も、少しは活動しやすくなるかもしれない。しかし、ファンが一挙一動を注視していたのでは、テロをやろうにもやれないなど、逆効果も大きいのだ。

基本的に、ネットのヘビーユーザーであり、ボリュームゾーンを占める下流層は、主体性がなく、他人への依存性が強い。だからこそ、強くてカッコいいものに憧れ、それに付き従おうとする。すなわち、自分が何かになったり成し遂げたりするのではなく、その強くてカッコいいモノに自己をオーバラップさせることで、バーチャルに自己陶酔し、それで自己満足できてしまうのである。

まあ、一般の大衆そのもののメンタリティーである。ネット上でも、リアルな世間でも、何ら変わることはない。しいていうなら、ネット上のほうが、リアルタイムで多くのヒトからレスポンスがくるところが違うと言えば違う。しかし、これとてメディアの特性ではなく、フェイストゥーフェイスで接している人数の違い、共同体の規模の違いと考えれば、過去における共同体のコミュニケーションとそんなに違いはないはずだ。

ファン、支持者が多いというのは、基本的には悪い話ではない。サポーターが多い方が気合いがはいるのと同じだ。しかしこういうファンは、ネットのヘビーユーザーの常で、下層で依存心が非常に強い人が多いちょっと困ったことである。かまってちゃんだったり、おねだりちゃんだったりする。さらに、他人の権威を傘に着ようとする。こうなるとぶる下がられた方は、かなりの重荷になる。

思想信条は自由なので、強くてカッコいい右翼のファンにはどんどん増えていただきたいが、そこから何かが生まれるとは思えない。関西にいけば、熱狂的な阪神ファンが大勢いる。しかしそういう熱い阪神ファンが、いかに力強く応援しても、それだけでタイガースが強くなることはない。話はこれと同じだ。本当の右翼ば、きちんと自分の主張を持ち、自分の責任においてしか行動しない。

所詮は虎の威を借りる狸であると思えばいい。主体的には動かない。しかし数があるんで、マーケットとしては大きい。さらに、熱しやすくノリやすい方々なので、マーケティング的には扱いやすいターゲットである。ある意味、古典的な増すマーケティング手法が、もっとも効果を発揮するヒトたちともいえる。政治でもビジネスでも、マーケティング的に彼らをどう利用するか。要は、ウマくノセてウマく使うことがカギなのである。


(14/04/25)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる