ネットに依存するヒトたちとは





意思決定を自分で自律的に決めることができず、行動の規範を自分の外側に求める人がいる。日本には、こういうタイプがけっこう多い。というより、そっちがマジョリティーといったほうがいいだろう。そういう事情があるからこそ、日本でネット依存度の高い人とは、すなわち行動の規範をネットに求めている人とみなすことができる。ネットには、格別なリーダーがいるわけではなにもかかわらず、自分の求める規範がそれとなくそこにあるからこそ、ネットに惹かれ、ネットに依存する。

この秘密は、みんながみんな互いに頼り合っているところにある。相互に依存しあっているだけでも、全体の数が多ければ極めて強固な共同体になる。一本では脆弱なマッチ棒でも、何万本も組み合わせてトラス構造を作ってゆけば、人が乗っても大丈夫な構造物を作れるのと同じである。実は、ネットコミュニティーの本質はここにある。そういう意味では、古典的な農村共同体コミュニティーの、とてつもなくでかいヤツとみなすこともできる。

こういう「相互依存力」構成された構造体は、で外からの応力には極めて強い。共同体で言えば、まるでなにか強い主張があるかのようにも見える。この構造体が小規模な場合、先ほどのマッチ棒の例で言えば、中の一本を抜いてしまえば、たちどころにバランスが崩れてあっさり自壊してしまう。しかし、とてつもなく規模が大きくなると、何本か抜いたところで大勢に影響ない。ネットコミュニティーの共同体としての強さは、この規模の巨大さにある。

このような例は、自然界の食物連鎖の中でも見られる。イワシなどの小型の魚の群れは、たとえばシャチに襲われてたとしても、巨大な群れ全体が食い尽くされることはない。はしっこの何匹かは食われるだろうが、それは誤差の範囲。群れ全体にはほとんど影響しない。エコシステムの系としての均衡には、すばらしいものがある。それと同じことで、巨大な共同体の存在は、甘え・無責任な人達にとっては、この上なく居心地のいい場を提供してくれることになる。

構造はあるけれど、中心はない。その昔流行ったフラクタル図形みたいなものだ。まさに金太郎飴。インターネットというと、先進的な感じもするが、そこに集いネットに依存する人々の多くは、決して先進的な生活者ではない。生活者としての先進性という意味では、ネット依存度の低い、いわゆる「リア充」のほうが余程進んでいる。寄らば大樹の陰が欲しいヒトたちが、おびただしい数結集し、相互に依存しあうことで「大樹の陰」を作ってしまう。

これが、ネットのマジョリティーである。ネット依存の高い人たちは、古典的な共同体の生活者に近いのだ。自立していない人たちがより集まって、たむろしている居心地のよさ。これこそが、ネット依存症のヒトたちがインターネットに求めているものである。いわば、近代社会になり、失われてしまった依存性の絆が、情報技術で復活したことになる。彼らが依存しているのは、ネットでもなく、ゲームでもなく、コンテンツでもなく、そこに集まる甘えに満ちた共同体なのだ。

皮肉な結果だが、産業社会において一旦解体されたかに見えた共同体が、社会の情報化の進展とともに、見事に復活したのである。インタラクティブ・メディアの発達が、他人依存、他人任せを増やしたのだ。最初、インターネットが登場した頃には、人々が、今までのような受け身のメディア利用をやめ、能動的に情報発信するようになるという夢物語が語られた。しかし、現実は全然そんなことはない。実際に起こったことは、その真逆。人々はより依存性を高め、自分で考えることをやめてしまった。

インターネットの普及により、核家族や単身世帯といった身近な相談相手が限られる生活をしている人々でも、頼り甘えられる相手がいつもそばにいるようになった。質問サイトが登場する前から、なんでも人に聞いてくる「教えて君」なんて輩がインターネットでは目立っていた。ネタに困ったとき、調理法がわからないときには、レシピサイトに頼ればいい。検索エンジンだって、とにかく何でも入力してみる。考えるより、聞いた方が楽なのだ。こういうサービスの利用状況は、当初htmlができた頃とは全然違う使われ方になっている。

ビッグデータのマイニングから、好きそうなものを提示する「おすすめ」機能も、そういう社会的背景があるから需要がある。自立した人は「お勧め」をお節介と思うだろうが、勧められると、欲しくなくても買っちゃうと言う人もかなり多い。アマゾンのWebなど、その典型だろう。エロ本とかフェチ系のマニア本とか、一度下手に買うと、その手のDVDやコミックス、写真集とかばかりお勧めにならんで、人前でアマゾンのページを迂闊に開けない状態になる。しかし、それで喜んで購入してしまう人も多いのだろう。

実は、インタラクティブなサービスを一番利用し、支えているのは、こういう依存心の強い人たちだ。基本的に依存心が強く、自分で考えて行動するというより、人に合わせて行動するタイプ。近くに依存する相手がいなくても、ネットに依存できる。ネット中毒が問題になるのも、ヘビーユーザーの多くが、もともとこういう性癖の人たちだからである。このネットが普及した理由を知れば、ネットビジネスへの取り組みも大きく変わってくる。

ネットのヘビーユーザーは、依存心が強く、回りに自分を認証する証を求るのだ。情報の発信力がある人は、そんなにネットに没入しない。いろんなチャネルで、マルチに発信している分、ひとつのメディアに接してる時間は短い。それに、こういう人たちは、ネットの中でも単純な消費者ではない。情報理論的な情報量ではなく、ウケやインパクトといった、質的な重みを加えた、いわゆる情報の量でいえば、受信より発信の方が多い人たちである。

しかし、ネット世界の主役という意味では、それは数多くの「情報の消費者」たちである。彼らは、ネット依存症というコトバがあるくらい、自立できない人達なのだ。インタラクティブな世界がマスになって、一番変ったのはここだ。一番ベタなヒトが、一番ネットをつかっている。ネットとは、先進的だったり、未来的だったりする世界ではない。リアルな世界よりもっとまったりべったりした、泥臭い世界である。変な幻想や思い込みはヤメて、現実をストレートに見つめよう。現実を現実として素直に受け入れるのは、マーケティングの基本中の基本なのだ。


(14/05/16)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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