「大きな政府」は大きな節介





「電車で化粧する人」に関しては、もう10年以上前から喧々諤々の百家騒乱状態だが、いまだに議論が絶えない。マナーに反すると強烈に反発する人もいれば、まわりに迷惑がかからないなら勝手にやればという人もいる。ひところよりは、「勝手にやれば」派が多くなった気もするが、まだよく話題になるし、一旦話題になればかなり「炎上」するテーマであることは間違いない。

社会的な集団の中で、周りの人間に不快感や迷惑をかけるのは、確かに問題である。しかしいつも主張しているように、迷惑を問題にするのなら、やったヤツを厳罰に処すればいいだけのことである。現場で被害を受けているワケでもないのに、はたまた目の前で起こっているワケでもないのに、妄想の中でとやかく言うのは、おせっかい以外の何者でもない。

百歩譲って、1920年代のアメリカの禁酒法のように、やるのが常識化していたものを、強権発動でやめさせる必要がある場合なら、禁止ルールを作って、おせっかいに監視する以外に手はない。もっとも、そういう人々が望んでもいないものを、暴力装置を盾に押し付けること自体の是非がある。はっきりいって、こういうコトをやるのは、全体主義的な手法である。

一般的にやる人の方が多数の場合は、それが客観的に見ていいのか悪いのかを問われることがない。というより、マナーというのは相対的なもので、その社会で多数の人がやっていることを、その社会でのマナーのリファレンスとしているに過ぎない。そもそも「マナー」や「感じ方」に絶対的なルールなどないことは、世界のいろいろな国や民族における価値観の違いをみればすぐわかる。

たとえば現代の日本では、公衆の面前で成人女性が乳房を露出して出歩くことは憚られる。当人としても、乳房を露出することは、とても恥ずかいことだと思っているだろう。しかし、世界には女性が上半身裸体でいることが自然と思われている民族もまだまだある。同様に、イスラムの女性にとっては、自分の髪の毛を、公衆の中で男性の視線に晒すことは、日本人女性が乳房や性器を露出のと同じような感じで「恥ずかしい」のだという。

それこそ、「みんなでやれば恐くない」である。常識の基本は、その内容の正当性ではなく、多数の側がそう思っているかどうかにある。従って問題になるのは、少数の側が、多数の側の持っている価値観と異なる行動を行なうことで、多数の側が「迷惑」を感じる場合である。このように問題が起きるのは、やる側が少数であることが前提となる。

いつも引き合いに出す違法薬物のように、大多数の善良な人々は、罰があろうがなかろうが、そんなものはやらないのだ。いっぽうやる人間は、どんなに禁止して取り締まりを厳しくしても、それをかいくぐってやる。価値観の体系が違う以上、どうしようもない。それをルールやマナーと称して押さえ込もうとしても、無駄な努力である。それならば、「自分たちから見えないところでやってくれ」と主張すべきだろう。

要はマイノリティーの問題である。多数であるやる側の人々は、やりたくない、あるいはやって欲しくないという少数者の意見を尊重して、適切な距離感を取りつつ、互いが迷惑しないで共存できる関係性を築けばよい。やってもいないのにダメと注意したり、ルールを作って禁止したりする必要はない。自己責任にすればいいだけ。我々の目の前でやったら、あんた方の人格を疑うよ、それでもいいならやりなさい、というわけだ

日本社会は、とにかくおせっかいのやきすぎである。自分と違う相手に、注意とか指導とかしたって意味がない。自分の財産や身体に危害が及ばないのなら、どうでもいいではないか。無駄なコストである。それでも気になるなら、外れたヤツを、村八分にして排斥すればいいだけのこと。それでもやりたいのなら、勝手にしろである。

それを、わざわざお上が指導するような話になっては、本末転倒も甚だしい。そのための組織や人員まで手配するのでは、無駄を増すだけだ。まさに、管理や指導を増やすために、「さらに大きな政府」を目指して、官僚たちのポストと利権を増やす話と同じである。みんな、互いに迷惑がかかったり危害が加わったりしない限りは、それぞれ勝手にやれば良い。これが「小さな政府」の基本であり、「自由競争」のベースであることを忘れてはならない。


(14/06/20)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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