政治家とホンネ





石原環境大臣の「あとは金目」発言が失言として問題になっている。しかし、こういう問題に首を突っ込んだことのある人なら誰でも知っているが、これは事実である。最後は金だし、金が欲しいからいろいろ理屈をつけて恫喝する。結局、最終的な金額を膨らますにはゴネたり、かたくなな態度をとったほうがいいし、やすやすと金額の談判には応じないポーズを示した方が、結局は自分を高く売れる。

だからこそ、最初は「自分は金では動かない」という態度を取るし、タテマエとしては「金ではない」ということになる。逆説的だが、このほうが最終的に貰えるものが多くなるのは間違いない。こういう八百長の出来レースをしている当事者にとっては、「実は談合じゃないか」といわれてしまうのが一番困る。だからこそかたくなにホンネを否定し、あくまでもタテマエにコダわらなくてはならない。

かつての革新政党をはじめ、労働組合、市民運動、弱者保護等々、この手の反対勢力の手口は、みんなこれである。ご立派な理屈で理論武装して、社会正義を気取っているが、それはうわべだけ。主張していることは、結局、よこせ、与えろ、バラ撒け。それだけである。だがそれでは余りに意地汚いので、あくまでもタテマエの大義名分を堂々と主張し続ける。欲しくてたまらない金でも、いやいや貰うフリをすれば、体面も保たれるということだ。

それは、今でも社民党や共産党の主張を、純経済的に分析すればすぐわかる。こ難しいイデオロギー的主張はどうでもいい。そういうのは反対のための反対と同じ、主張のための主張である。もちろん、言論の自由があるので、主張することは自由である。自由きままに、どんどん勝手にやっていただきたい。しかし、それに中身があるかどうかは、別問題である。そのためには、政治やイデオロギーでなく、経済的に主張を読み解けばいい。

彼らが主張していることは、原資があるかどうかなど全く確かめないまま、資金源がなくても、とにかく弱者である我々に金をバラ撒け。と、これだけである。親の財布の中身のことなど考えず、ただ欲望のまま「あれ買って、これ買って」と、だだをこねる幼児となんら変わらない。お笑い芸人の古典的な芸のパターンの一つに、こういう幼児の所作をマネするというのがあるが、メガバンクみたいな名前の女性政治家など、まさにそういう芸人の一人としてみた方がいいのではないか。

これがまた、正義の味方ヅラしてバラ撒きを行い、自分の利権を増やしたい官僚の思惑と表裏一体を成している。官僚も、40年体制を築いた戦時下の「革新官僚」以来、妙に社会主義的なものが好きだし、自分が弱者の代表ヅラするのが好きだし、メンタリティーはこういう勢力とよく似ている。文部官僚と日教組が、敵対するフリをしながら、実は共闘して学校利権を肥大化させ、伏魔殿化していったことなど、このいい例であろう。

そういう意味で、行政=官僚はあくまでもタテマエにコダわる必要がある。ホンネを言ったとたんに、自分たちの利権を正当化できなくなってしまうからだ。しかし、政治家は違うはずだ。こういうタテマエの伏魔殿に対抗し、ホンネを堂々ということで「ハダカの王様」化できるのが政治家の役割ではないのか。確かに英語でもタテマエのコトを「Politically correct」というぐらいで、政治家はなかなか本音を言いにくいようだ。しかし、ホンネで勝負することこそが、民主主義の王道ではないのか。

いろんな主張があっていいのである。セクハラ野次をとばして問題になっている都議会議員がいるが、そういう発言がしたいなら、いっそのこと「日本セクハラ党」とでも言うのを作って、「セクハラの自由、痴漢・覗きの自由」とか主張して全国で立候補すればいい。「手鏡」の元大学教授、とかも候補にしたらいいんじゃないの。どうせ泡沫候補にしかならないだろうが、みんな面白がって、ドクター中松よりは話題になるのではないか。主義主張に顔を顰めるヒトもいるだろうが、なんせ選挙においては「言論の自由」である。

個人的には社民党や共産党の主張はアホなたわごと思っているが、言論の自由は何よりも尊重すべきだと信じているので、そういう方々がそういう主張をすることは、他人にそれを押し付けたり、他人を否定しない限りは何ら問題ないし、ドンドンやっていただきたいと思う。そういう意味では、こと選挙における政策論議ということでは、「公序良俗に反する主張をする政党」があってもいい。「日本大麻党」とかいって、マリファナ解禁を主張したっていい。それを肯定するか否定するかは、選挙の結果が審判することである。

面白いと思ったら票が入るだろうし、アホクサと思ったら票が入らず供託金没収になるだけだ。それがあって初めて、民主主義が機能するし、民意が反映されるのだ。かつては、政見放送はノーカットで放送されるというのを盾に、放送禁止用語を連発した政見放送を行なう泡沫候補がいた。こういうほうが、よほど民主主義として健全である。民主主義にタテマエはいらない。ホンネで勝負すべきである。そのためにも、政治家がホンネを言える環境を作らなくてはいけないのだ。


(14/06/27)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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