生活者からみた日本の近代史(その2)

江戸時代の延長だった19世紀日本の生活





明治に入って、近世から近代というのが、いわゆる受験とかの日本史である。歴史の教科書には、その節目として「明治維新・1868年」と書かれている。しかし、「ローマは一日にしてならず」ではないが「明治も一日にしてならず」。将軍徳川慶喜が大政奉還したからといって、その日から一瞬にして近代になるわけではない。確かに1868年は、元号が明治に変わった年ではあるが、それ以上でも以下でもない。

政治がおちつくのは、西南戦争が終わって、群雄割拠の内戦状態が解消してからである。これには10年かかっている。経済が落ち着くのは、松方デフレが効を奏し、全国一体の資本主義的経済圏が確立してからである。これには20年かかっている。この頃になると、大日本帝国憲法が公布され、帝国議会が成立し、幹線鉄道網も整備され、産業革命が始まってテイク・オフを迎えることになる。それまでの19世紀の日本は、まだまだ江戸時代からの延長上にあったのだ。

この時代の日本の大きな課題が、西欧化を図ることであった。帝国主義列強に植民地化されたないためには、自らが列強に伍していかなくてはならない。しかし、すでに日本には、江戸時代に築いた発達した社会制度があり、西欧諸国と比べても、かなり高レベルの社会システムが構築されていた。これは、江戸時代に養われた、経済力・生産力の高さとも呼応し、江戸時代に蓄積された国力を、追い付き追い越せの文明開化へと活用できた。

たとえば、法制度の輸入においても、木に竹を継ぐようにグローバルスタンダードを押し付けられるのではなく、すでに自ら持っていたシステムが、19世紀西欧的な秩序と親和性が高かったことを活用し、ゼロからの移入ではなく、今までの秩序を残したまま、読み替えにより対応することができた。これはまた、近代社会の礎を築いた時代は、江戸時代に生まれ育ち、江戸時代の生活習慣を刷り込まれたひとたちによって担われたことに繋がる。

明治に入ってから作られた近代教育のもとで育った人材が出てくるのは、もはや大衆社会への大きな波が世界的に顕著になり、日本でも強まり出した明治20年代になってからである。それまでの日本社会は、基本的に江戸時代の延長上にあったのだ。もちろん、その後欧米に留学や研修にゆき、技術や制度を学んできたことはいうまでもないが、それで生活習慣まで欧米化した人は少数である。

そういう影響があっても、こと生活という面からみると、大多数の人は変わったわけではないのは、明治時代の元勲たちの老後の生活パターンをみればわかる。ましてや、一般庶民の生活の生活は変わりようがない。それがどんなものであったかは、どうやったら知ることができるのであろうか。人々が生活していく上の意識や行動がわかる記録は、この時代、文章か写真しか残っていない。

もっと前の時代に比べれば、それらが残っているだけめっけモノである。しかし、それらの資料は、たとえば写真では、銀座通りの煉瓦街や陸蒸気など、文明開化の最先端を記録したものが多く、庶民の日常を記録したものは限られる。だが、外国人が興味を持って記録したものなど、資料がないわけではない。これらを詳細に調べると、日常生活そのものは江戸時代から、そう大きく変化していないことがわかる。

基本的生活パターンである「衣・食・住」については、考古学的に伝世品から当時の生活を分析することができる。まず「衣」について見てゆこう。外見に関するものとしては、「断髪令」こそ出たものの、ある日から急に着ているものが全く変わることはない。少しづつ買い足すことはあっても、基本は手持ちの衣類を着回すだけである。洋装も現れてはきたものの、一般化するには至っていない。

一般の民衆が洋装をするのは、軍服に代表される、職務に付随した制服に限られる。上層階級においては、欧化政策で、公式の場では洋服を着用することも多くなり、その意図通り、外見的には変化したように見えるが、これもある種の職務と結び付いた制服と考えられないこともない。こういう人たちも、家に帰ってプライベートタイムを過ごすときは、一部の欧化原理主義者を除けば、その多くは、江戸時代同様の和装であった。

食については、料理そのものは残らないが、食器や調理器具から、当時の食生活を推測することができる。大都会では、欧米風の料理を供するレストランも生まれたが、またまだ外国人向け等、限られたターゲットを対象とするものであった。一般の家庭で、日常的に食されていたのは、江戸時代と変わらないメニューである。蕎麦や寿司の屋台のような、庶民向けの外食も、基本は江戸時代と変わらなかった。

文明開化というと、牛鍋のような肉食が始まったというイメージはある。確かに、牛鍋屋が生まれたのはこの時期だが、それは日常的に肉食をはじめたということではない。それに、非日常的な肉食という意味なら、江戸時代から、体力回復のための薬と称して、広く行われていた。猪鍋は、庶民にも親しまれていた。牛肉の味噌漬けは、近江の名物として、彦根藩から将軍への献上品となっていた。外食としての牛鍋も、その延長上にある。

住、すなわち建築に関しては、すでに幕末から、外国人居住地などで、西洋式、といっても植民地様式の建築がはじまっていた。これらの様式は、都心部の商業建築には多少の影響も与えたが、都市部と言えども、ほとんどの建築物は江戸時代と変わらなかった。特に住宅は、耐用年数が長いだけに、変化が少なく、生活様式の連続性を特に強く感じさせるところである。

住環境のあり方を規定する、家族の形態という意味では、産業革命以前のこの段階では、労働人口が都市部に移り住み、そこに定住して家族を構成するということはなかった。もちろん、薩長閥に代表されるように、士族出身で官僚となり、中産層的なライフスタイルとなった人たちもいないわけではない。しかし、それはあくまでも少数であり、農村部で生活しているマジョリティーには、影響がない。

というより、当時の産業構造は、まだまだ江戸時代の藩ごとの経済圏の影響を強く残した地域独立型であり、中央集権、一極集中型ではなかった。したがって、大都市で起こりつつあった変化も、全国的にみればごく一部の動きに過ぎず、まだ大きな影響を与えるには至らなかった。20世紀を迎える前夜、明治20年代の半ば日清戦争が起こるあたりまでの日本人の生活というのは、このようにまだまだ江戸時代からの延長上にあったといえる。


(14/07/11)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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