生活者からみた日本の近代史(その4)

「貧しい大衆社会」が目指したもの





20世紀は、世界的に大衆社会の時代であった。20世紀後半に日本のアカデミズムを風靡した「進歩派」の学識者は、政治でも経済でも文化でも、何かにつけて日本を「遅れた」存在と規定したがってきた。そのため、そういう人達が言う「戦前」の日本の生活者は、旧態依然とした「半封建的」で「近代化していない」存在にされてしまいがちである。しかし、現実はそんなことはない。

そういう学者さんは西欧至上主義で、追いつき追い越せしか頭にないのだからしょうがないが、「戦前」の日本も、立派に大衆文化が花開く大衆社会だったし、それは「戦後」とも直結し、一貫している。ただ、西欧先進国に比べると、絶対的な経済力が貧しかったのは事実である。たしかに生活レベルは低かったが、それは大衆一人一人にまで恩恵が廻ってくるほど、経済力・生産力がなかっただけのコトである。

金はなくとも、数がある。それが大衆のパワーである。貧しくても、それなりに人生を楽しむ術を知っている。生産にしても消費にしても、はたまた輿論にしても、マスのボリュームゾーンが、その数でキャスティングボートを握るようになる。20世紀前半を通して。日本の生活者が何を求め、その中から何を手に入れたか。その基本型が固まったのは、1920年代ということができる。そこへの流れを振り返ってみよう。

二流とはいえ帝国主義列強同士が戦った日露戦争は、すでに国を挙げたミニ総力戦の様相を示していたが、その傾向は第一次世界大戦で決定的になった。ヨーロッパ全土を巻き込んだ総力戦は、欧州列強各国を疲弊させ、19世紀的秩序を解体させることに繋がった。その一方で、直接戦場とならなかった米国・日本では戦争特需が発生し、時ならぬ好景気をもたらした。日本でも、「成金」という言葉が生まれたのはこの時代である。

それまでの資産家・ブルジョワ階級ではなく、大衆の中から好景気に乗って金持ちが現れてきた。アメリカでは「ローリング20`s」と呼ばれ、バブリーなゴールデン・エイジが現出した。この流れは、経済の構造変化とも相まって、世界的な変化となる。結果として、19世紀の世界を仕切った、ヨーロッパ的な階級社会に代わり、アメリカ的な大衆社会が世界の覇者となる。

日本も、社会のスタンダードがユーロピアン・スタディーからアメリカン・スタディーに変わる。見逃されがちだが、これは重要な変化である。敗戦後、アメリカ軍が進駐軍として日本を占領しても、さほどの混乱もなくそれを受け入れた下地は、この時代に形作られていた。日本は米国とは違い、高度に発達した資本主義の下での豊かな大衆社会ではなく、後発の貧しい大衆社会ではあったが、社会のパラダイム・シフトは進んでいった。

日本の大衆社会化を考える上では、この時代に起こった「エリートの変質」が重要な意味を持つ。階級的にエリートが生み出されるのではなく、教育により大衆の中からエリートが産み出されるようになったのだ。これにより、大衆自身が権力を持つ基盤が形作られた。それはとりもなおさず、偏差値主義の誕生、秀才エリートの登場を意味する。日本で予備校というビジネスが生まれたのも、この時期である。

階級社会の中でのエリートは、育ちが良く、人格者であり、リーダーシップを取れる人間であった。つまり、誰もが一流とみとめる、質の高さが歴然と違う人間がエリートだったのだ。これに対し、秀才エリートは学校の点数しか問われない。どんなに育ちが悪く、人格的に劣っていても、試験でいい点を取りさえすれば、誰でも成り上がれる。民主的であり、機会の平等は担保されている。その分、妬みも生まれるし、その地位や権限を悪用して、私利を追求するヤカラも出てくることになった。

世界的な大衆社会化は、日本の大衆の生活にもパラダイムシフトをもたらした。大企業や大組織が続々生まれることにより、ホワイトカラーが大量の生み出された。これにより中流層が生まれ、その生活スタイルとしての核家族が生まれた。平屋の戸建て住宅に、世帯主以下一世帯が住むのに特化した、いわゆる「サザエさんの家」スタイルの構造は、この時代の産物である。これが当時は郊外だった、山手線の西側の地域に続々と現れた。

このような家庭では、欧米風の料理を和式にアレンジした「洋食」も、日常的なメニューとして食べられるようになる。カツやコロッケなど、おなじみの洋食メニューが確立し、一般レベルで食べられるようになったのもこの時期である。外食でも、そういう洋食メニューを出す洋食屋が一般化するとともに、より高級で本格的なレストランも増えてくる。また、中華料理が会食メニューなどから一般化しだすのもこの時期である。

中産階級を生み出したホワイトカラーは、そのオフィスでの生活スタイルも、それまでの日本人とは大きく変わった。背広・ワイシャツ・ネクタイが、オフィスで働く月給取りの基本スタイルとなる。都市部のオフィスにおいては、洋服が一般的になったのだ。これと軌を一にして、「モボ・モガ」と呼ばれたように、都市部では、プライベートファッションでも、カジュアルな洋装が広まっていった。

この前提として大きかったのは、中等・高等教育の場で、学生服・セーラー服という洋風の制服が導入され、こういう高度な教育を受けた層がホワイトカラーとなった点も見逃せない、中産階級以上の層では、ズボンやスカートを着用することに抵抗がなくなっていたのだ。また、工場労働者が作業時に着用しているものも、それまでの和式の職人スタイルから、軍服のようなナッパ服に変わっていった。

世の中を動かして行くハンドルを大衆が握るようになったという意味では、大正時代に入るとともに大衆社会が到来したといってよいかもしれない。大正時代は、大衆時代でもあったのだ。大衆が消費者として、内需で日本経済を牽引する存在であるだけでなく、モノを言う大衆として、社会を動かす存在となる。大正デモクラシーは、政党政治をもたらし、憲政の常道という考えかたを生み出した。

それは、単に制度的なもの以上に、藩閥の元勲といえども、世論を無視した舵取りができなくなっていたことを意味する。すでに日清戦争に於ても、日露戦争に於ても、必ずしも戦争に踏み切りたくはなかった内閣が、戦争を待望する輿論に抗することが出来なかったために開戦に至ったという事情がある。この時代、日本の輿論は今想像する以上に強かったのだ。普通選挙の実施は、ある種の総仕上げであったといえるだろう。

このような流れがあったからこそ、昭和に入るとともに、日本型大衆社会が成立した。「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれたように、大衆文化は爛熟し、全体としては貧しいながらも、都市部を中心に大衆消費社会が花開くようになる。文化が米国スタンダードへと移行するとともに、「外国といえばアメリカ」というのが常識になったのもこの時代である。

米国とは、地政学的には衝突することが多くなってきた反面、貿易依存度はどんどん高まっており、まさに豊かな大衆社会と貧しい大衆社会とで、愛憎相まみえる関係であった。エンタテインメントの世界の変化が、それを象徴している。映画ではトーキーが導入されるとともに、それまでの欧・米二極から、ハリウッド映画全盛へと変化していった。これは、ますますアメリカへの憧憬を高める効果があった。

1930年ごろには、すでに日本で「ミッキーマウスブーム」も起きている。実はこのブーム、ディズニー作の本家のアニメ映画やキャラクタ商品がもてはやされたのではなく、勝手にミッキーマウスのキャラクタを利用した漫画が、いろいろな漫画家によって次々と発表され、大人気となったものである。まあ、貧しい途上国だっただけに、今のパクり大国中国と同じような状況であった。また職業野球が誕生し、大リーガーが来日するなど、野球が国民的娯楽・人気スポーツになったのもこの頃である。

太平洋戦争で、鬼畜米英でアメリカと戦った日本人が、敗戦後、ひとたび進駐軍がやってくるや、天皇陛下万歳から、マッカーサー元帥万歳に一変し、アメリカ礼賛になってしまった裏には、20世紀前半を通して大衆の心の奥に刷り込まれた、アメリカへのあこがれがあった。米国は、日本の占領政策を立案する際に、この「米国のソフトパワー」という視点を、充分考慮していたものと思われる

その意味でも、1920〜30年代と、戦後といわれる1950年代は、連続した一体のものである。戦前のGDPの最高値は、1941年に記録している。その値を越えるのが1956年。経済白書の有名な「もはや戦後ではない」というフレーズは、GDPが戦前最高値を越えたことを意味している。大衆のマインド・セットという意味では、あまりの経済格差に背伸びしてもとどかなかった、アメリカへの横恋慕が成就する高度成長期が見えてくるまでのプロセスともいえるだろう。


(14/07/25)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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