生活者からみた日本の近代史(その5)

「1930年代」の夢





515事件、226事件以降、1930年代の日本は、近代史を語る時には、軍国主義の足音がひたひたと忍び寄る暗黒時代として語られることが多い。政治史という意味では、それも一面真実である。しかし、生活者の視点から見ると、大きく異なる様相が見えてくる。「進歩派」の人は、この時代を「黒歴史」にしたがるが、人々の生活文化という面ではひとつのピークであったことは間違いない。

ここでも何度も取り上げているので、昭和31年度の経済白書の有名なスローガンである「もはや戦後ではない」の意味は、すでにご存知とは思うがあえて念を押す。ここでいう「戦後」とは、敗戦以降続いた。経済力・生産力の崩壊による衣食住が満たされない耐乏生活のことである。そして、その対比になる前提として、戦時体制に入る前の、経済力の充実した時代の生活がおかれている。

つまり、これが意味するものは、この年日本のGDPが戦前最高だった1940年の水準を回復し、日本人が戦時体制に入る前の生活レベルを回復した、ということなのだ。言い換えれば、昭和20年代よりは、1930年代の方がずっと住み良く文化的な生活ができた社会だったということが、当時の人々の記憶の中では、常識として共有されていたことになる。

少なくとも日本の1930年代は、貧しい大衆社会がそれなりに頑張って実現させた、一つの到達点としてとらえることができる。世界恐慌で疲弊した経済が、すくなくとも軍需景気で回復し、結果としてGDPは右肩上がり、開戦直前の1940年には最高値を記録するわけである。同時に、この時期は政治的には多様性が失われていった時期ではあるが、日本の大衆文化が20世紀前半でもっとも花開いた時期である。

間違ってはいけないのが、反対する国民を軍部が暴力的に押えて戦争への道を進んで行ったわけではない点である。それどころか、大衆が戦争を熱狂的に追い求め、そのポピュリズムが戦争への道を推し進めたのだ。ポピュリズムが起こるということは、それなりに民主的な社会で「民意」が反映されているコトを意味する。すなわちファシズムを産み出すものはポピュリズムであり、その前提として大衆社会が形成されていることが必要である。

ファシズム、もしくはそれ的な全体主義(しばしば共産主義の形をとった)が、20世紀になって生まれるのは、大衆社会になっていることがそれらが生み出される前提となっているからである。これは、18世紀的な絶対王権による独裁と大きく異なる。マスの数の力の前に、有責任階級たる上流階級が19世紀的な権力を保持できなくなった。かといって後進帝国主義国では、豊かな大衆社会を安定的に維持できるほどの経済力はない。

その不満のはけ口が、ファシズムであり、戦争であった。これらは、間違いなく無産者大衆が追い求めたものであった。大衆の声が政治に反映されるシステムがなければ、こういう全体主義は生まれない。だからワイマール憲法がなければ、ナチスは政権を取れなかっただろうし、普通選挙に基づく憲政が行われなければ、日本でも軍部の台頭はなかった。ファシズムは、無産者の夢であった。

夢を実現したという意味では、これまた政治的には問題が多いものの、満州国というものも、この時代を象徴する社会実験という一面を持っている。その問題点はさておき、1930年代の日本が憧れ目指していた文化を築こうとし、あるところまで実現したことは間違いない。ゼロベースで作れる分、アメリカン・スタンダードを、当時の日本の国力でできる限り真似したモノである。建築、都市計画、社会インフラなどは、アメリカを目指し、部分的にはそれをしのぐレベルに到達した。

満鉄に代表される鉄道は、その代表例だろう。日露戦争後、鉄道利権を手にした日本は、風土の共通したアメリカから輸入した中古車輌から、満鉄をスタートさせた。しかしその際、北米を凌ぐ当時としては世界最高水準の高規格な建築規格を設定した。実は、日本の新幹線も、中国国鉄も、その満鉄の規格を引き継でいる。いろいろ物議を醸したが、新幹線車輌が中国の鉄道を走れる理由がここにある。新幹線はデカすぎて、線路の幅は同じでも、ヨーロッパやアメリカ東海岸の鉄道は走行不可能なのだ。

国内でも、帝都復興計画などの都市計画は、50年・100年の計を以て立案された。23区内の道路計画など、20世紀後半になってその真価が発揮されたものも多い。また、東京圏・近畿圏など、都市部の鉄道網が今のような形で整備されたのも、この時代である。1930年代は、「東洋一」を目指した時代でもある。模倣でも、世界の先端レベルのモノを揃えようとした。それらは、必ずしも全て実現したわけではないが、この時見た夢が、戦後の高度成長の基盤となったことは間違いない。

この時代の経済成長は主として都市部の工業生産によって支えられたため、都市部と農村部の経済格差が極大になった時代でもある。その一方で、新聞、雑誌、ラジオなど、マスメディアが発達し、全国レベルで情報の流通・共有が進んでいった。都市部の工場での求人増は、人口の流動性を高めることになった。これにより、都会への憧れ、上昇志向が強く現れることになる。文化においても、中央集中型が確立する時代であった。

この時代景気が良かったのは、間違いなく軍需経済の恩恵である。限られたリソースを、軍需に傾斜配分していたことは確かだが、これはケインズ政策の公共投資と同じである。それだけでなく、ハコモノ行政より景気浮揚効果や経済刺激効果が大きい。開戦とともに、貿易が遮断され、急速に経済がシュリンクするが、1940年をピークにそれまではかなりの成長率で右肩上がりだった。

飛行機にしろ軍艦にしろ、内容的には先端的な重工業製品なので、その裾野は広く、多方面に大きな波及効果を持っている。下請け孫受けの生産も多いだけでなく、雇用創出効果も高い。色街も、その恩恵で大いに繁盛していた。少なくとも、生活文化という面では、ピークになっていた。化粧品やファッションも多様化する。空力的には何のメリットもないが、カッコいいイメージだけを求めて流線型時代が花開いた。

「40年体制」が確立し、戦時体制になると、物資が欠乏し生活も苦しくなるが、それまでの時代は別モノである。「戦前」を悪く言うことで、自分達の責任を回避したい人達が、戦時下の状況が昭和全体を覆っていたように、意図的に喧伝しているだけである。結果的に世界情勢から中止になってしまったが、1940年には東京オリンピックが予定され、そのための準備も着々と進んでいた。そういう意味では、1930年代の夢をもう一度実現したのが、昭和30年代であり、人々の生活という意味では、戦時下と戦後の1940年代が特異点なのだ。


(14/08/01)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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