生活者からみた日本の近代史(その6)

高度成長とは何だったのか





このシリーズの最後に、「豊かな大衆社会」の意味を考えてみよう。「豊かな大衆社会」の本質を知ることは、ある意味、高度成長とは何だったのかを知ることでもある。すでに見てきたように、20世紀前半の「貧しい大衆社会」と20世紀後半の「豊かな大衆社会」は、「日本型大衆社会」を追い求め、実現する流れという意味では、一続きの存在である。

1930年代の夢は、戦争と戦後(「もはや戦後ではない」の戦後)という15年の中断をはさんで、昭和30年代の高度成長の中で再び蘇ることになる。「戦後」の「進歩的知識人」や高級官僚達が、必要以上に戦前と「戦後」の断続性を強調するため(それは、彼らの戦争責任を棚上げし、自分達の存在を正当化するためなのだが)、ともすると20世紀前半と20世紀後半は構造的に別のものだと捉えられがちである。

だがこのスキームに立つ限り、日本の大衆社会の本質をつかまえることはできない。一般に日本の高度成長は、「一億総中流化」という文脈でとらえられがちである。確かにそれまでとは異なり、上昇志向を夢みる際に、現実的な壁がなくなったのは事実であるし、それが多くの人々にとって高度成長の恩恵と感じられたことも事実である。経済力の向上が、だれにも豊かな大衆社会を享受する可能性を拡げたのは間違いない。

しかし、高度成長により、根本的に社会の構造が変化したわけではない。ここを見失ってはならない。日本においては、大手の製造業で顕著に見られたことだが、年齢が同じレベルなら、大卒ホワイトカラーも、高卒ブルーカラーも、所得水準にそれほど大きな較差がなかった。フローベース、年収ベースでいけば、誰にも平等に無限の可能性があったことになる。これと年功給与・終身雇用が相まって、「良い会社に入ること」が一つの既得権化してしまった。

しかし、ここでみんなが見逃していたコトがある。ストックの壁は、余程の運と才能が重ならないと、越えられないし、それは高度成長を経た後でも全く変わっていないのだ。給与生活者では、資産を形成することはできない。多くの人が勘違いしているが、自己使用の不動産は資産ではない。同様に、たかだか数千万円単位の現金性貯蓄も資産とはいえない。最低限喰っていけるだけの年収が保証される事業用不動産、億単位の現金があって初めて資産なのだ。

サラリーマンの生涯給与は2億といわれいている。もともと資産を持っていないヒトは、ここから生活費やローンを払わなくてはいけないのだから、億単位の資金を貯めることなど不可能である。一方、もともと資産も持っていつつ給与生活をしているヒトは、ローンはいらないし、基本生活費は資産運用で賄える。給料は、小遣いと貯蓄に回せる。これなら、資産をさらに1億円増やすことも、決して不可能ではない。残酷ではあるが、これが現実なのだ。

もちろん、例外はいる。元々資産を持たない給与生活者であっても、生涯の間に資産を蓄積した人は確実にいる。しかしそれは、あくまでも運がいい例外的な存在である。高度成長による経済の拡大も、階級構造という意味では、有産者と無産者の垣根を壊すような変化ではなかった。せいぜい、無産者でも自己所有の自宅を持つことが出来るようになったという程度の変化でしかない。

例外的に階級の壁を越えるという意味では、昔から投機で一山当てれば「成金」になるチャンスはあった。そういう意味では、実はそういう社会の掟そのものは変わっていないのだ。成金が成金のままで、本当の資産家になれなかったのも、歴史の示すところである。投機で儲けた金、これは本来ストックであり、再投資に廻さなくてはいけない。しかし成金はストックに廻さず、その分もフローとして消費してしまう。

それは、成金には資産家としての行動様式ができていないからだ。フロー的な所得は、貧乏人でも運がよければ手に入るチャンスはある。宝くじに当るなど、ギャンブルで大勝ちすれば良い。だが投資した資金のリターンと、フロー的な所得とは、お金の質が根本的に違う。フロー的な所得は、「宵越しの金は持たない」で使い切っても構わないが、投資した資金のリターンは再投資しなくては、次のリターンが得られない。有産者は、この違いを本能的に会得しているが、無産者は、これがわからない。

フロー的に恵まれた無産者。これが豊かな大衆の本質である。高度成長期以降の日本の生活者を見ていく上では、この点が重要なのだ。団塊世代からはじまった、大企業のブルーカラーとなる集団就職。これにより、地方出身の貧しい層にも、昭和初期からの「大衆社会の夢」を、自分のものとして実現できる道筋ができたの。違いはここだけである。違いは大きいといえば大きいが、基本的に連続したスキームと見れば、本質的な構造はさほど変わっていないと見ることも出来る。

20世紀の前期と後期は、実は繋がっている。身近な例ではあるが、一貫性の例を上げてみたい。私の母方の叔母は、太平洋戦争が始まるとともに、これで当分化粧品が買えなくなると思い、店にあった口紅を買い占めた。それから20年がたった私の未就学児童時代、その叔母は、まだその時買い占めた口紅を使っていた。なんと20年分以上買い占めていたことになる。戦争が始まっても金さえあればそんなに化粧品が買えたこともびっくりするかもしれないが、開戦前の化粧品は、戦争後の日本でも充分使えるものだったことの方に着目してほしい。そのぐらい、1930年代と昭和30年代は繋がっているのだ。

20世紀の日本社会は、アメリカン・スタンダードな大衆消費社会を大衆が追い求め、日本なりの形で手に入れたるプロセスということができる。社会全体が貧しく、大衆消費社会があこがれだけだった時代があった。そして経済成長とともに、上昇指向で都会に出て頑張れば大衆消費社会が手に入るようになった時代がやってきた。そして今や、全国津々浦々、何もしなくても大衆消費社会が向こうからやってくる時代となった。日常でありデファクト・スタンダードとなった大衆消費社会には、もはやなんの夢も付加価値もない。

もっとも付加価値がなくても、大衆消費社会の便利さだけは享受している。その代表が、コンビニとファストフードである。これらは、ある意味日本の大衆社会が求めてきたものの象徴であろう。アメリカ型大衆文化の中から生まれたものではあるものの、日本型大衆文化のなかで特異な進化をとげ定着した。80年代から、海外でセブンイレブンやデニーズのロゴを見ると、なつかしささえ感じさせるものがあった。それがいまや、システムまで日本化されて、世界に広がっている。

頑張ったところで、乗り越えられない壁はどこまで行っても立ちはだかる。しかし、高望みしなければ、そこそこ便利でそこそこ幸せな世界は、自分の廻り5m以内にある。その中で、いかに無理をせず安定的に生きていくか。これが、これからの生活者の生きる道である。幸いなことに、日本の生活者にはそのすばらしいお手本がある。江戸の町人である。貧しい中でも、いかに楽しく風流に人生を過ごすか。その知恵と、まったりとそこそこ幸せに暮らせる社会インフラが組み合わされれば、また楽しからずやである。このマッタリ感こそが、これからの生活者像を考えるカギである。

「戦中・戦後」という特異点を通じて、1930年代と昭和30年代が繋がっていたように、20世紀という特異点を越えて19世紀と21世紀は繋がる。20世紀を人類史上の特異点としてとらえるならば、それは経済の成長とその成果のフィードバックにタイムラグがあった時代であったと規定することが出来る。その歪みが、争いをうみだした。またそれが機会の平等と組み合わされたことにより、妬みと恨みから差別や格差が産み出された。

20世紀を、希望も悪夢もあった「一夜の夢」として歴史の中の一ページとできるのか。近代との訣別は、こと生活者レベルではすんなり進むだろう。いや、都会を志向しない層がマジョリティーとなっていることからもわかるように、若者達の間では、すでに変化は始まっている。これに棹刺さなければ、レリゴーで未来はおのずとその手の中にある。そのとき、政治や経済も、それに合わせて変わればいい。変化しないようでも、なにもしなくてもゆっくりとゆっくりと変化する。それがマスの生活者の本質なのである。


(14/08/15)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる