ルールは、破るためにある





最近の若者は、70年代に青春を過ごした我々からすると、ルールを守りすぎる。「若気の至り」と言うくらいで、かつては、ルールや規則よりも自分のやりたい意思のほうを優先させ貫くのが、若者の特権であった。まあ時代が違うのだから、比較してもしょうがないのだが。とはいえ、ルールさえ守っていれば、自分もそのスキームの中で守ってもらえる気になっているかのように見えるのが気になる。

はっきり言って、それは甘えすぎだ。いかに日本が平和ボケしているか、余りに能天気な発想である。他人は、誰も自分のことなど守っちゃくれない。自分の身は、自分で守るしかない。これがグローバルスタンダードである。草食動物のように、互いに群れることで守りあうというならまだしも、権威に擦り寄って守ってもらおうという発想は最低だ。そもそも、権威は最終的には守ってくれたりしない。

個人にとっては、権威とは、攻撃対象か、無視すべきものか、どちらかでしかない。対峙するものなのだ。グローバルスタンダードはこっちである。ある意味、契約により、個人と権威とが部分的に利用し合うコトはあるかもしれない。しかし、所詮は水と油。信頼しあうことは出来ないし、どっぷりつかることもありえない。猜疑心と警戒心を怠ることなく、是々非々でしかインタラクションは作れない。

しかし、本来アウトサイダーであるマイノリティーほど、「弱者」を装い、権威による保護やお墨付きを欲しがるという、変な傾向が蔓延しているはどうしてなのだろうか。化外の民となって、マスとは一線を引いた上で、自分達のアイデンティティーを貫くことこそ、マイノリティーの本懐ではないか。世界的に見れば、少数民族の側が、過激化し、テロやゲリラ戦で自己主張することが多いことがそれを示している。

そもそも、世の摂理はこっちなのだ。ならば、他人に迷惑をかけない範囲で、思いっきり好き放題やったほうがいい。ルールは、守るためにあるのではない。破ったり、隙間をついたりするための規範としてある。ルールに書いてないことは、何をやってもいいのだ。だから、ルールがないより、ルールがあったほうが、ルールを破るアイディアが湧くし、やりやすい。

これはまさに、ハッカー精神である。技術的に実現可能なことは、その技術を持っている人なら、やってもかまわない。それで問題が起きたら、自己責任で防ぐ準備をしていなかった方が悪い。ハッカー精神の根源はここにある。全てが自己責任の中での、自己責任同士の対決。ハッカーとは、自己責任で闘う、極めて高度な知性の勝負である。ある意味、極めてフェアで、極めて自由平等なスキームである。

実は、法律などの社会システムもこれと同じなのだ。法体系に抜け穴があれば、それに気付いた人間は、そこを突いて好き勝手にやる権利がある。責任を問うのであれば、そんな穴のある法律を作った方が悪いのだ。世に出すなら、どんな矛でも防げる完璧な盾にすべきである。それが出来ないのなら、選りすぐれた矛を作った人間が、それを打ち破ったとしても、それは当然の権利である。まさに、競争原理・市場原理こそ自然の摂理なのだ。

たとえば、ヘア禁止とか、ワイセツの基準が厳しかった頃のアダルト業界のほうが、いまよりよほどクリエイティブだった。それは当時の業界には、何とかして法規制の抜け穴を突いてやろうという、社会的ハッカー精神がアフレていたからだ。こういう気風がベースにあると、次々とアイディアが湧いてくることになる。中には勇み足をやり、人身御供に摘発されてしまうヒトもいたが、それも含めてゲーム感覚に満ちていた。

ダメと書いてないことは、なにをやってもいい。それが、ルールの本質である。このためには、規則の行間を読み取る力がカギになる。まさに知恵比べだ。そもそも日本の法律は、官僚が自分達に都合がいいことを、運用でいくらでも取り入れられるように、ザル法になっている。これを使わない手はない。日本の法律の条文には、官僚達が自分たちの利権を増やすためのいろいろなトラップが、そこここに仕掛けられている。

そもそも、法律の条文を作ったのは官僚である。そして、官僚は秀才でしかない。所詮は秀才。記憶力が良く頭の回転も早くて、勉強はできるが、結局はそこまで。地アタマのいい天才には、発想のスケールではかなわない。官僚たちは、ウマく立ち回ってごまかし切っているつもりだろうが、地アタマのいい騙しの天才の前には、そんなのは赤子の遊び。頭隠して尻隠さず。逆に、もっとスマートで、ちょっとやそっとじゃバレない抜け穴を、いくつでも発見できるのだ。

かつて、「造反有理」という言葉があった。要は、理屈さえつけば、なにをやってもいいということだ。理屈で勝つにはどうするか。別に論理的に正しい必要はない。論理的には屁理屈だっていい。理屈で勝つか負けるかは、反論できるかどうかにある。反論されたら負けである。しかし、相手を反論できない状況に追い込めれば、それがどんなに論理的に破綻していたとしても、正論になる。

反論できない屁理屈は、正当な理屈なのだ。これさえわかっていれば、恐いものはない。相手を反論できない状況に追い込めば、何をやっても許されるのだ。さあ、どんどんルールを破ろう。イヤなルールなど、守る必要はない。相手の反論さえ封じれれば、全ては思うがまま。そして、相手の反論を封じる手段は、理屈だけではない。これも、何でもありなのだ。自信を持って、信じる道を進もう。歴史の進歩は、過去のルールを破るところからはじまるのだ。


(14/08/22)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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